第十四条:助力における細則
まさか学校帰りに図書館へ寄っていく高校生に僕がなるとは思わず、苦笑が浮かぶ。
入館してすぐ、本多さんはそわそわし始めた。
「好きなように回っていいよ。付き合うからさ」
「そう?」
返事こそ素っ気無かったが、本多さんは近くの棚に設けられた新刊コーナーにそそくさと向かって、手馴れた手つきで物色し始めた。頻繁に来ているのかもしれない。
「なにか面白そうな本ある?」
「まあまあ」
本のあらすじに目を通している本多さんは、振り返りもせずあいまいに答える。本を読むことそれ自体が好きな彼女だから、内容にはあまりこだわりがないのだろう。手当たり次第に眺めている。
そのうちの一冊が目に付いて、本を手に取った。
表題のユーモアという文字に気を惹かれただけだ。苦境もひっくり返すユーモアの心を手に入れて、日々に余裕を取り戻そう、などと帯に謳われている。
どーだか、と思って本を戻した。
余裕があるからユーモアも出るのであって、ユーモアを発揮して余裕をひねり出そうというのでは、あべこべになっている。
「本多さん」
「ん」
立ち読みを始めてしまった彼女を押して、新刊棚の前から退く。いつまでも張り付いていたのでは迷惑だ。
本多さんはしぶとく持っていた本を閉じて、小脇に抱えた。
「それ借りるの?」
「うん」
心なしか楽しそうだ。
大森さんなら、もっと露骨に表すだろうな、と思って苦笑した。
あちこち回って、背表紙を眺めるだけでも気晴らしになる。どんなあいまいな形でも、情報を得る、という行為があれば摂取吸収する方向に脳が動いて、意味のない悩みや古い思考は停止して奥深くに格納されてしまうらしい。
図書館を一巡するころには、だいぶ気が楽になっていた。
今はとりあえず、ともちゃんさんに任せて、待ちに徹するしかないだろう。
ふと目を向けた先で、本多さんが両手で本を抱えていた。
「そんなに借りるの?」
「うん」
「持とうか?」
「半分、お願い」
「はいよ」
七冊受け取る。ハードカバーとソフトカバーが入り混じって、ジャンルも教養本から小説、エッセイと幅広い。本当に読むことが好きなようだ。
この図書館は一度に十冊までなので、本多さんは目いっぱい借り出すことになる。
三冊の文庫本を手にしている本多さんは、淡く微笑んで微笑を浮かべて僕を見上げ、不意に強張らせた。
「……真島くん?」
「ん、なに? どうかした?」
目を眇めて僕を見つめている。
なにか気に入らないものを見たような、お菓子を背中に隠しているのを糾弾する子どものような、中身まで覗き込むような視線だ。
なんだか理由もなくばつが悪い気持ちになり、たじろいでしまう。
本多さんはしばらく僕を眺めていたが、見つめるときと同じように唐突に、視線を外して細いため息をついた。
「ど、どうしたの?」
「借りる」
「あ、うん」
貸し出しカウンターに向かい、貸し出し手続きを終えた本を鞄に詰め込んで、パンパンに膨れた鞄を担いでよろよろと出口に向かう。
「鞄、持つよ」
本多さんは僕を責めるようにじろりと見上げて、やがて顔を伏せた。
「お願い」
渡された鞄はズシリと重く、本の重みだけでこれほど重くなるのか、と思えるほど抱えるのに苦労した。長く持ち歩いていると肩が凝るだろう。
その鞄を背負いながら、本多さんの背中を見つめた。
急に拗ねたように僕を置いて早足になる。機嫌を損ねてしまったのかもしれない。
「本多さん、怒ってる? 僕なにかした?」
「なにもしてない」
「教えて」
本多さんが急に振り返った。心細そうに眉を寄せて、僕を見ている。
強い調子で聞いていたことに、ようやく気づく。
能天気にも忘れかけていた心の重みが、急速に戻ってくる。
「また、大森さんみたいに、急に疎遠になったら……どうすればいいか、分からないよ。教えてくれなきゃ」
本多さんは沈黙を守った。
顔を逸らして、そっと綿を震わせるような声で言う。
「真島くんは関係ない。一人で期待して落ち込んで、そんな私の自分勝手さに、怒ってるだけだから」
「……そう、なの」
本多さんは顎を引いた。
彼女の言葉は、いまいち理解できなかった。僕が関係ない、というのも考えられない。明確に、僕を見て急に機嫌を損ねてしまったのだ。
「よく分からないけど、ごめん。本多さんは自分勝手な人じゃないよ。たぶん僕が、なにか気に障ることをしたんだと思う。ごめん」
自嘲する。つくづく、僕は最低らしい。
そこに至って、分かっていない謝罪なぞ、余計癇に障るかもしれない、と気づいた。慌てて顔を上げる。
本多さんは立ち止まっていなかった。
「ちょっと、本多さん!」
先を歩いていた本多さんが、悪戯っぽい微笑を浮かべて振り返る。
「関係ないって言ったでしょ」
「いや、聞いたけど」
「じゃあ言わないで」
口をつぐむ。
相変わらず、状況に置いていかれているような座りの悪さにむずむずする。しかし、あまりしつこく聞くわけにもいかなかった。
どうやら本多さんの機嫌は、少しよくなっているらしい。
淡く微笑んでいる彼女は、僕の前に立ち止まった。
「ねえ。図書館、暇じゃなかった?」
「全然。おかげでかなり気が晴れたよ」
「そう?」
本多さんは少し安心したように顎を引く。
手を伸ばして指差されたのは鞄だ。もう返したほうがいいらしい。
渡した鞄を担いで街の駅を見上げた本多さんは、僕を横目に窺った。
「また今度も、どこか行こう。今度はボウリングとか、カラオケとか、遊べるところ」
気を使われているのを感じて、得がたいありがたさにジンとする。どうにも、怒らせたりした僕に対して、優しくしてくれる。本当にいい子だと思う。
今度はしっかりとうなずいた。
「ありがとう」
本多さんは曖昧に微笑んだ。
その口がほんの少しだけ開けられて、ほとんど動かさずに、息のような音が漏れる。
「……うん、って、言ってくれないのね」
「本多さん?」
「ばいばい。また再来週に」
本多さんは大きく言って、手を振った。
くるりと背を向けた彼女は改札を抜けて、ホームに降りていく階段に向かってしまう。僕と本多さんは反対方向だ。
当番のない間は、僕と本多さんに接点はない。再来週まで当番はなかった。
僕はため息をついて、鞄を背負い直す。彼女と違って本がないから、ずいぶんと軽い。その重量を自覚して、苦笑が漏れる。
彼女の気遣いに、返せるものがない自分が歯がゆい。
「本を贈っても、今さら喜びはしないだろうなあ」
そもそも贈り物という手段が、なんだかわざとらしい。
友人に礼をする方法を頭のなかに並べながら、ホームに下りていった。
日は暮れ始めている。
電灯よりも夕日が明るく、暮れなずむ空はひどく暗い。そんな影の濃いホームで電車を待っていると、ふいに肩を叩かれた。
「捕まらないから、何してんのかと思えば」
そこに見慣れた顔が眉をしかめて立っている。思わずぽかんと開けた口から、そのまま声を放り出す。
「由良川? なんでお前、こんなとこに」
電車が来るアナウンスを見上げて、由良川は僕を振り返った。
「ちょっと真島に用があってな。時間あるか?」
「ないことはないけど……どこか行くのか」
「まずは隣駅だな」
僕の質問に由良川は飄々と答える。彼の言葉は、いつにも増してつかみどころがない。
電車が駆け込んできて、その風と騒音に会話が遮られる。ドアが開いて、降りる人々をやり過ごし、その流れが途切れた後に乗り込む。
向かいの扉脇に張り付いて、一息ついた。
ベルをかき鳴らして電車の扉が閉まり、やがて走り始める。まるで意に介さず携帯をいじっていた由良川は、突然それをポケットに突っ込み、僕を振り返った。
「よぉ真島。暇つぶしだ、マジレス禁止な」
「はあ?」
「お前、誰が好きなの?」
あんぐりと口を開けてしまった。二度目。
「いきなりなにを」
「マジレス禁止」
動揺した僕に指を突きつけて、淡々と言う。
むっとして、口を動かして台詞を吐き捨てた。
「……あー実は一目見たときからお前が好きだったんだよー」
「棒読みで言ってくれてありがとう、過去最悪の冗談だなそれ」
「自覚はあるよ」
言うんじゃなかった。背筋が悪寒でぞわぞわする。
次の停車駅をアナウンスする。それを見上げた由良川は、ちらりと俺を横目に見た。
「ロナウドのファストフード店に行くんだが、好きなメニューはなんだ?」
「かけそば」
「覚えておこう。桜もそろそろ終わりだな。……連想ゲームだ、桜といえば?」
「ニューヨーク」
「悪くない」
くく、と肩を震わせる。
その態度を見て、目を細めた。
「お前は言わないのかよ」
「付き合ってられるか」
「自分から振っといて最悪だな」
「まあな」
ひっへへ、と由良川は変な声を出して笑った。
まったく、とため息をつく。文句を言う気も起きない。
もともと由良川は、こんないい加減なやつなのだ。
だが、根は悪いやつではないどころか、的確に必要な助力を必要なだけ貸してくれる。
見る目があるというのだろう。だから、いい加減でも上手くやっていけるのだ。
停車駅を繰り返しアナウンスして、電車はブレーキをしっかりと掛け始める。窓に駅のホームが飛び込んできた。慣性で体重が揺らぐのをこらえる。
停車して、わだかまる人々から這い出すように降りる。階段に流れていく人たちに続きながら、由良川は歩くついでのように口を開いた。
「なあ真島、お前、マジレス禁止って楽しんでたよな」
楽しんでいた。
今さらそれを否定するつもりもないが、それが意味のあることだったかと言われると、口をつぐむしかない。
結局冗談は身につかず、僕の性根は歪み、大森さんを傷つけた。
改札を抜けて、由良川の足は迷う様子もなく進む。
ファストフード店というと、駅前にある店のことだろう。
空は藍色にすっかり染まっていた。街灯が煌々と道路を照らす。
由良川は僕を半分振り返って、皮肉っぽく笑った。
「なんで冗談が楽しかったか、分かるか?」
「なんで?」
理由を問う論法が通用するのか? という疑問だったが、由良川はそれを鸚鵡返しの質問と取ったようだ。肩をすくめて、僕の腹を叩く。
「お前の心にユーモアがあるからさ」
「何言ってんだお前」
心の底から出たような低い声が出た。
どこが笑いの琴線に触れたのか、由良川は腹式呼吸で大きく笑う。
「はっははは。ま、ないものはできない。お前はもともと冗談が嫌いじゃない、むしろ好きな部類だったんだろ。だから大森に付き合ったんだ」
そうだろうか。
確かにうまい切り返しというものは、好感があるし嫌いじゃない。そういう面で言えば間違いないのだろう。
信号も横断歩道もない道路を渡り、縁石に飛び乗りながら、由良川は言葉を継ぐ。
「で、そういう縁で大森と交流を持って、どう思った?」
「どうって……最近それ聞かれてばっかだな」
「お前がサボってきたツケだよ、面倒くさがり」
「そうかもな」
思わず吹き出してしまった。
よりにもよって由良川に面倒くさがりと言われるとは。まして、それが間違いじゃない。
角を曲がって公園を行きすぎ、駅前モールの隅っこに追いやられたビルにそのファストフード店は設けられている。
宵の口という時間もあって、店内は混み合っていた。由良川は座席フロアに真っ直ぐ向かいながら、愉快そうに口の端をつり上げる。
「ただの面倒くさがりじゃない。生真面目な面倒くさがりだ」
「なんだそりゃ」
「根が真面目なのは、お前のいいところだろ。ちゃんと、頭回せよな」
足を止めた由良川が、にっと笑みを浮かべる。
この友人から直接的にいいところだの言われたのは初めてで、照れくさいやら恥ずかしいやら、お前に言われたくはないという反感やらで、苦笑しか浮かばない。
「頑張るよ」
「おう、頑張れよ」
他人事のように言って、僕の背中を押し出した。
彼の視線を追って席の一つを見ると、もはや見慣れた顔と目が合った。彼女は少し不機嫌そうに口を引き結んで、じっと僕をにらみつけている。
ともちゃんさんが、そこにいた。