第十三条:不適切な運用に対する補則
日常に戻っただけだ。
大森さんと話す前に戻っただけ。
だから、こんなにも褪せて見えるのは、僕が自分を見限ったせいだ。
余計なものに手を出すから、痛い目を見た。高望みをしたから転んだのだ。
それでも、僕の目は大森さんを追っている。
大森さんはあの後、励まされたのか慰められたのか、始業直前に教室に戻ってきた。休み時間にも席を動くこともなく、借りてきた猫のように静かで大人しくなっている。
僕が最低で最悪なのは分かっていた。
どうせもともと真面目しか取り得がなく、それがふざけていたのだから、取り得なんてなくなってしまった。
学級委員を譲って、誰もやりたがらない役目ではなく、楽で適当な委員会に入った。
僕の存在意義は、とっくになくなっていたのだ。
でも、それと大森さんは関係がない。
せめて彼女だけは、元気に戻してあげなければならないと思う。
「由良川。励ましてやれない?」
「無茶言うなよ。自分でやれ」
由良川は露骨に迷惑そうな顔をして嫌がった。
いい加減な彼が、落ち込んだ女の子などというものに手を触れたがるはずもない。そもそも、由良川は大森さんとそれほど親しいわけでもないのだ。自分でやれ、という言葉は正しい。
しかし、僕が大森さんに掛けられる言葉はない。少なくとも、僕が話しかけることを、大森さんは望まないような気がしている。
どうしよう、と考えても、どうすることもできない。
答えの出ない問いに悩むのは、もう飽きていた。昨日から散々、そんな自問自答ばかりしていたのだ。
だから、昼休みに一組に向かった。
本多さんの姿を見つけて、取り次いでもらおうと声を掛けようとしたら、目的のともちゃんさんを見つけた。彼女は勢いよく立ち上がり、にらみつけるように僕を見ている。
肩を怒らせて歩いてきて、僕の腕を握ると強く引っ張った。
「来なさい」
教室を出て廊下を通り、階段の一階にある非常口の鉄扉を押し開け、上靴のまま校舎裏に連れ出される。冷え込むような風が肌寒くブレザーの袖口から吹き込んだ。
ひと気のない校舎の影まで来る。
学年棟の裏手で、近くの窓は埋め込まれていて開かず、この場所が見える場所はほとんどない。日陰に湿った土の臭いが鼻を突いた。
ようやく足を止めたともちゃんさんは、僕を振り返る。
「で、今さら何の用?」
「……頼みたいことがあって」
言ってから、頼むまでもないことに気がついた。
「大森さんを励まして欲しい、んだけど、ごめん。言うまでもなかったかな」
はは、と笑う顔は、自分でも情けないものだろうと分かる。
僕の顔をにらみつけたともちゃんさんは、ふんと鼻を鳴らして顔を逸らした。
「お断りよ」
「え?」
「あたしはいちいち励ましたりしないって決めたの。騒ぐときは一緒に騒ぐし、落ち込むときは放っとくか、近くで適当にやってる。余計な手出しはしない」
唖然としてしまった。
ともちゃんさんは決然と眉根を寄せて、壁を睨みつけている。
「そんな、だって、友達なんでしょ」
「友達だからよ」
きっぱりと言い切ったともちゃんさんに、二の句を継げなくなってしまった。
そんな、そんな在り方もあるのだろうか。
彼女の堂々とした態度を見ると、それがむしろ適しているような気さえしてくる。
しかし、とも思う。
今の大森さんは、うつむいて塞ぎ込んで、暗がりに座り込むようなものだ。触れられず、忘れられたら、立ち上がろうと思うことさえやめてしまいそうな、そんな気がする。
だって、大森さんは、あんな笑顔を浮かべていたのに。
ちら、と僕を見たともちゃんさんは、口を尖らせて投げつけるように言った。
「文句があるなら、自分でやんなさい」
また言われた。
できるならそうしている、という叫びを飲み込んで、自嘲混じりにつぶやく。
「僕が働きかけても、逆効果じゃないかな」
「そーかもね。でもあたしが失敗したらあたしの責任。そそのかされただけ損じゃない」
あ、と声を漏らしてしまった。
素っ気無い態度のともちゃんさんが僕を見る。彼女の表情に苦笑が浮かんだ。
「……そっか、そうだね。そりゃそうだ」
人にやらせて楽をしようなんて、そんな上手い話はない。
押し付けられる側だったから、押し付けることをすっかり忘れていた。そして誰もやらないなら自分でやるしかない。
「じゃあ、やってみるよ」
僕の言葉に、ともちゃんさんは意外そうな顔をした。しかし、何も言わずに、厳しく曲げた口を動かす。
「まあ、せいぜい成功を祈っておいてあげるわ」
「ありがとう」
きびすを返す。
外から戻った校舎内は、極端に暗く感じられた。
頼って動いてくれるほど都合のいい人は、存外、いないものだ。
だから僕にお鉢が回ってきていた。
僕が投げ出したら、そのまま放り置かれてしまう。それこそ、忘れられたかのように。
教室に戻って、一人でお弁当をつついている大森さんを見る。まるで一人きり、教室とは別の部屋に閉じこもっているかのように、明らかにその場所だけ空気が違っていた。
その人形のような生気のない横顔を見て、足がすくむ。
背中が芯から冷たくなって、指先が震えた。心臓が絞られたように痛む。
どうすればいいのかなんて、思いつかない。
分からないが、分からないまま、とにかくやってみるしかない。
このままでいるわけにはいかない。
思い切って、大森さんの隣に立った。
「大森さん」
「……あの」
大森さんは僕を振り返って、見上げた。
その目が、口元が、無理やりに笑みを形作る。
「無理して話しかけなくていいんですよ」
婉曲表現だった。
目が言っていた。
もう近寄らないで、と。
なけなしの勇気は、面白いほど簡単に挫けた。
僕の激励は言葉にならずに終わった。ごめん、と慌てて言って、席に逃げる。椅子を引いて、座る前に一度だけ振り返った。
大森さんが泣きそうな顔をしていたように見えたが、すぐに前髪に隠されてしまった。振り返ったことそのものが罪悪のように思えて、うつむく。
由良川が覗き込むように僕を見たが、そこに何を見たのか、一言も言わず、何事もなかったかのようにパンを口に運ぶ。
昼食を広げる余裕もなく、罰を受けているかのように、僕は椅子に縮こまっていた。
学級委員は僕の醜態を一瞥し、興味なさそうに顔を逸らす。言及されなかったことに、救われたような思いさえ感じる。
情けなさすぎる自分への絶望が、四肢を重くした。
僕はこんなに最低だっただろうか。
浮かんできてしまう笑いを、うつむいて隠す。笑うことさえ哀れまれたら、立ち続ける自信はない。
授業を受け流し、放課とほとんど同時に、逃げるように教室を出ていく。本当は部活動のある日だが、出るつもりなどさらさらなかった。
まだ誰もいない廊下を歩き、階段に差し掛かったところに、女の子が待ち構えていた。
ともちゃんさんは何も言わず、ただ不機嫌そうに口を曲げている。
「相当、嫌われたみたいだ」
笑って言ったつもりだが、どんな表情になっているのか、自信が持てない。
「……そーかもね」
ともちゃんさんは頭に手をやり、髪をかき回すようにして吐き捨てた。
「あたしもなんとかやってみる。……言っとくけど、期待しないでよ? あの子は、もともとがああなんだから。今までが無理してたのよ」
そんなわけはない。
言葉が思わず口を突いて出そうになって、なんとかこらえた。
「それじゃ。なんかあったら連絡するわ」
「うん、分かった。ありがとう」
礼を言うと、ともちゃんさんはばつが悪そうに首を傾けて、廊下を戻っていく。振り返って見送っても、ともちゃんさんは振り返る素振りもない。
その背中に、あれが自然なはずはない、ともう一度心の中で語りかけた。
大森さんは、あんなにきらきらした笑顔を浮かべていたのだ。
まだ高い日を見て、方途に迷うような気分が無性に満ち溢れてきた。
ともちゃんさんは彼女の意見を翻して、どうにかしてすると言ってくれた。それまで僕はどうすることもできない。それこそ、せいぜい祈るしかできないのだ。
それほど嫌われていないことを。
また友人として会話が出来ることを。
しかしふと、心を疑念が過ぎった。
どうして僕は、そこまでしてまた話したいと思っているのだろう。
それこそ、学級委員の彼に笑われてまで。
校門をまたぐ足も重い。
ざっざっざ、というアスファルトを走る音が背後で止まった。
「真島くん」
しっとりと落ち着いた声音が、荒い息に揺れていた。
「……ほ、本多さん?」
振り返ると、本多さんが背筋を伸ばして息を整えている。ふう、と大きく息をつくと、淡い笑みを口元に浮かべた。
「遊びに行かない?」
「ど、どうしたの急に」
「元気ないみたいだから、気晴らし」
首を傾げているが、もともと僕の答えを聞くつもりはないそうだった。
無理やりにでも連れ出そう、という意思が眼鏡の奥で悪戯っぽく細められている。
驚きの波が落ち着くと、引き潮の後から困惑が露出する。
「でも、いいの?」
「帰宅部で鍛えてるから、時間にだけは自信があるの」
まるで冗談の続きのように、きっぱりと言い放ってくれた。
思わず苦笑が浮かんでくる。励まそうとしてくれている。ありがとう、と言おうとして、今言うのも無粋と踏みとどまった。
「遊びにって、どこに行くの?」
本多さんの自信はあっという間に揺らいだ。
なにかを考えるように視線を泳がせ、困ったように眉を下げてしまう。うつむき加減でささやくように声をこぼした。
「こういうとき、どうすればいい?」
「僕に聞かれても、僕もあんまり遊ばないからなあ」
「じゃあ……間食、とか?」
学校帰りにファストフード店に寄る、という図を思い出しているのだろう。
そう予想をつけながら、本多さんに尋ねる。
「お腹すいてる?」
「全然」
「じゃあ、無理することないんじゃないかな」
予想通りすぎて笑ってしまった。
しかし、本多さんにとっては起死回生の腹案が断たれたようなものだったらしく、困窮しきり、という顔で気弱そうに口を開く。
「どうすればいいの?」
うーん、とうなって、考える。
この時間から行ける場所など多くはない。街で本多さんが喜びそうな場所といえば、一箇所しか思いつかなかった。
「とりあえず、図書館とか」
散々図書室にこもっていた図書委員が、図書館に行くというのも、間の抜けた話だ。しかし、他に相応しい選択肢もない。
やはりというか、本多さんはちょっと安心したように、首肯した。
「分かった」
図書館に向かうことになった。