第十一条:変化に対する附則
放課後が終わり、空は赤くなる寸前のくすんだ青みを帯びている。
図書委員の当番を終え、閉室の準備や片付けを済ませて司書さんに挨拶した僕たちは、図書室を撤収して帰宅の途に就いている。電車で通学している僕と本多さんは、当番の日は駅まで一緒に帰っていた。
それが今日は、帰り道で珍しい人影を見かける。
「やあ師匠」
「やあ真島くんか。どうかしたかね」
それが師匠のイメージらしい。
声色を変えながら振り返った大森さんは、僕の隣にいる本多さんを見て目を丸くした。
「って、あら、本多さんもご一緒ですか?」
「うん。大森さん、今帰り?」
「そですよ。私はこう見えてテニス部なんです」
「そうなんだ。てっきり漫談部だと思ってた」
「いやあそんな部活があれば入るところだったんですけどね! って、さすがにそんな怪しい部活に入るほどのめり込んでいません」
怪しい部活というのも失礼な話だ。
大森さんは檻にいる動物の珍行動を見るような目で、僕たちを見比べる。
「お二人こそ、同じ部活だったんですか?」
「いや、今日は図書委員だよ。部活も別々、っていうか本多さんって何部だっけ?」
「帰宅部」
僕は目を丸くした。
「えっ、あの日本一過酷って有名な帰宅部?」
「今年はインターハイで入賞を目指してる」
「そこ入賞止まりなんだ」
というか、さらっとうなずいて答えた本多さんの順応性もすごい。
大森さんはむっとしたような顔を少し伏せながら、窺うように本多さんを見ている。
「本多さんも冗談を言うんですか? くだらないって言ってたのに」
「真島くんの練習に付き合うって言ったから」
「……そうでしたか」
腑に落ちないような大森さんの声。
確かに、端然とした本多さんの口からデタラメな冗談が飛び出してくるのを見ると、僕も一瞬何事かと思ってしまう。そそのかしておいて失礼な話だ。
本多さんが、意味ありげな視線を僕に向けた。
悪戯をするように、少し楽しそうに緩んだ口を震わせる。
「目の前で盛大に滑られたけど」
「勘弁してください」
腰を折る。
「な、なに言ったんですか?」
大森さんが目に見えるほど動揺している。
その追及はお願いだからやめて欲しい。今になってようやく、僕は大森さんが小学生のころの話を嫌がった気持ちがよく分かった。これは嫌だ、色褪せてくれない。
本多さんは意地悪な目を細めて、楽しそうに言った。
「教える?」
「ほんとゴメンなさい堪忍してください」
「ふふ。だそうよ」
「えー。教えてくださいよ」
大森さんは不服そうに体をくねらせた。
そんな面白おかしくして見せても、嫌なものは嫌すぎる。説明する言葉を頭に浮かべようとするだけで、叫びながら夕日に向かって駆け出したくなってくる。
「いやもうホント、抹消したいくらい嫌」
「除け者はひどいです。誰にも言いませんからあ」
「お願いだから勘弁して」
「頼みますよう」
「嫌だってば。ホント思い出させないで」
「そんなこと言わず、ぱぱっと吐いちゃってくだ」
「しつこいよ、嫌がってる」
本多さんが大森さんの腕を引いて遮った。
その瞬間、大森さんは瞠目した。瞳にねばつくような不快と怒りが溢れる。
「だってそっちが言わないから!!」
住宅街を貫くような絶叫。
残響がさっと駆け抜けて空に上っていく。
空の端が赤く沈み始め、影の色が暗くなっていた。夕日を背負う大森さんの顔が陰り、光を吸い込む瞳だけが薄暗さを嘲るように爛々と見開かれている。
「あ……」
あいまいな吐息を漏らした小さな口が、無理やりな笑みを模る。
「ちが、えっと、な、仲間外れはひどいなあ~って、」
震える声が裏返った途端、大森さんは口を閉ざした。ぶるりと、まるで野獣が獲物に飛び掛かるかのように体を震わせる。
「先帰りますっ!」
叫ぶように宣言を置いて、大森さんは駆け出して行った。
テニス部の名に恥じない機敏な走り出しと俊敏な足運びだ。角を折れて住宅街の影にもぐりこんでいく。
「ちょっと、そっち駅じゃな……!」
引き止める声は途切れた。
大森さんの背中を見失ってしまったからだ。
家々の門と電柱と駐車の影だけが、細い生活道路に垂れ込めている。
確実に全力疾走と分かる、街中には似つかわしくないほどの俊足だ。
ドロシーが通りすぎたことに気づかなかったカカシのように、名残だけでも見つかりはしないかと住宅街の影の間に目を走らせている自分に気がついた。
文字通り、そこには影も形もありはしない。
「どうしよう、急に、こんな」
今ひとつ形にならない、あいまいな後悔ばかりが湧いては沈む。
そんなに不愉快なことを、してしまったのだろうか。
教えていれば違っただろうか。
僕のせいで傷つけてしまっただろうか。
それとも、他に嫌なことでもあったのだろうか。
実際は、走り出す瞬間の表情がどんなものだったかさえ、僕には分からなかった。
本多さんは、どこか冷めたような、淡々とした声を放る。
「……気にしなくていいんじゃない。あんな勝手な子」
「そういうわけにも」
未練がましく眺めていた道から視線を引き剥がし、本多さんを振り返る。
本多さんは、どこか寂しそうに僕を見て、首を傾げた。
「でも、追いかけていったら迷惑じゃない?」
「……かな」
仮に追いかけたとしても、かける言葉を持っていないことに気がついて、愕然とした。
そもそも、何を欲しているのか、言葉を欲しているかどうかすら、分からない。
僕の目には、大森さんの冗談しか見えていなかった。
赤く沈んできた空に征服されたように、影に沈んでいく道路を見る。
犬の散歩をしているらしい男性が角から現われた。人の影はより大きい影に飲み込まれて、見えもしていない。
歩き出した本多さんに釣られるように、駅に向かって足を動かす。
長い大通りは住宅街だけあって活気がなく、ひどく寂れていた。
大森さんは、何を思って僕に関わってきていたんだろう。