第十条:本質に関する細則
昨日は昼休みが当番だったので、今日は放課後が図書委員の当番だ。
相変わらず本多さんは、座り込んで文庫に目を落としている。まるでカウンターに据えつけられた文学少女のモデルのようだ。
返却手続きを終えた本を本棚に戻す途中で、本多さんを見る。
視線に感づいたのか、本多さんが顔を上げた。目が合ってしまう。
「なに?」
眼鏡の奥にある瞳は落ち着き払っていて、見られていたことに対する不審も不快もまるで抱いてないように見える。単純に、何か用があって見られたと思っているのだろう。
僕は苦笑して、抱えているハードカバーの本をひとまず読書机に置く。
「本多さんって、文庫を読んでることが多いよね。ハードカバーは読まないの?」
本多さんは再び手元の文庫に目を落とし、その形状を眺める。
「持ちにくいし、めくりにくいから」
「そっか」
文字が目に入れば追い続ける習性があるかのように、すぐ読書に戻ってしまう。
本の虫、活字中毒、といった言葉では言い表せないくらい、本多さんと読書は似合っていた。例えば、眼鏡に慣れれば、つけていることも忘れてしまうのと同じように。
本を抱えて、戻す作業に戻る。背ラベルを見て、請求番号をもとに本棚に戻していく。間違えて戻されていた本を見つけて、請求番号にあった場所に並べ直す。片づけを終えてカウンターに戻っても、本多さんは時が止まっていたかのように同じ姿勢で本を読んでいた。
しゅら、とページを繰って紙がすれる音。
永遠に本を見つめてページを繰るだけの時空として、世界から独立してしまいそうだ。放っておけば本棚と同一化しそうな気がする。
かあん、と野球部のバットがボールを叩く快音が遠く響く。
ふと本多さんが顔を上げた。
目が合って、ようやく自分がぼんやりと彼女を見つめていたことに気づく。さすがに少し不思議そうな顔になって、本多さんは首をかしげた。
「なに?」
「本多さんって、よく本を読むよね。何冊くらい読んでるの?」
「日に一冊だけ。小学校のころからだから、結構読んでるかな」
「結構どころじゃないね」
本多さんは自覚がないように首を傾げながら本を閉じた。話に集中してくれる構えだ。迷惑だったかな、という思いを飲み込んで、話す態度を取ってくれた本多さんに尋ねる。
「本多さんって、なんで本が好きなの?」
「……なんとなく。文字を追って、その情報を頭で受け取って、紙を指でめくってると、落ち着く気がするから」
「読むのが好きなんだね」
まったく文字通りに、読むという行為そのものが好きなようだ。あまりにもそのまますぎて、思わず笑い出しそうになる。
本多さんは本の縁を指でなぞりながら、僕を訝るように目を細めた。
「どうしたの? 急に」
「んー、なんでかな。たぶん、今までと違うことをしたから、今までのことを振り返って不思議に感じたんだと思う」
「……冗談、っていう?」
「そう」
本多さんは表紙に目を落とした。
「うまくやってるの?」
「どうかな。慣れないことするもんじゃない、とは思うけど……やってみなきゃ慣れないもんね。さすがに、うまくはないよ」
「そう。無理、しないほうがいい。真島くんは真島くんだから」
「やっぱり、冗談とか似合わない?」
遠まわしな宣告に、苦笑をかみ殺して聞き返す。
本多さんはあっさりとうなずいた。
「と思う。よくは分からないけれど」
「まあそうだよね。だからって、言われて言い出すようなものでもないけどさ」
「どうしたら言える?」
本多さんは落ち着いた所作で僕を見ていた。日向ぼっこをしながら景色を眺める猫のような、億劫さと好奇心を同居させた目だ。
少し考えて、僕が本多さんにジョークを飛ばしている情景がシュールすぎることに気づいて思考を打ち切った。
「本多さんには言いにくいな、なんか。落ち着いた人だから」
「そう?」
「うん。冗談は、乗ってくれるか笑ってくれる人でないと」
「じゃあ、頑張ってみるから」
軽く言って、カウンターに本を置いた。
本多さんの手から本がなくなっている光景に目を疑って、改めて彼女の目を見る。
眼鏡の奥にある落ち着いた瞳は、まったく迷いも冗談もなく、額面通りの意思を持っていた。むしろ僕のほうがうろたえてしまう。
「え……や、やるの?」
「ん」
軽くうなずかれた。
「……えーと、じゃあ。うーん」
少し考えてネタを探す。
カウンターの貸し出しカード、日付の判子、黒の朱肉スタンプ台、栞も挟まれていない本。揃えられたスカートとハイソックス、膝の間に組まれた手、ブレザーと視線を巡らせて、本多さんの能面のような表情を見る。
「あ、顔に何か付いてるよ」
「え?」
「ほら、眼鏡が……ダメだ、滑った! ごめん無理ッ!」
言っている途中で無理を悟った。カウンターに突っ伏す。本多さんだって返事のしようもなさそうな無茶な冗句で、もはやどうしようもない。穴掘って埋まりたい。
「本当だ、ちゃんと眼鏡掛けなきゃ」
本多さんの淡々とした声と、眼鏡のフレームを畳む軽い音がする。彼女は眼鏡を置き、カウンター脇に置いてあったルーペを目に当てた。
底なし沼から首だけ出てるような気分で、本多さんの目にあてがわれたルーペを見る。
「どう、見える?」
「すごく歪んでる」
「そっか。度があってないのかな」
本多さんはルーペをカウンターに置いて、僕を振り返った。
「……こんな馬鹿みたいなことしてるの?」
「ゴメン。ほんとゴメン」
心からゴメン。
これ以上ない寒さに慄いている僕に、本多さんが語調を和らげて声を掛けた。
「なんで、冗談なんて覚えようと思ったの?」
「んー」
ゾンビのようなもたついた動きで、カウンターから体を起こす。
真面目しかない自分ではない、もう少し別のところに手を伸ばしてみたかった……、などと本音のところは、言えるはずもない。恥ずかしすぎる。
軽く笑って、本多さんを横目に見る。
「世界の笑顔を少しでも増やしたくて」
本多さんは少し驚いたように目を大きくした後、優しく首を傾けた。
「眼鏡で?」
「ゴメン。ほんとゴメン。心からゴメン」
墓穴を掘った。
本多さんはカウンターの向こうにある書棚に視線を投じた。そっと背表紙をなぞるような、ぼんやりした声をこぼす。
「あの大森っていう子とは、どうなの?」
「どうって、なにが?」
「なんていうか、関係、とか」
「関係、って言われてもね」
質問をしておいて、本多さんは関心なさそうに文庫の縁を指でなぞっている。
僕は頭をかいて、なんとも言いにくい大森さんとの関係を思い浮かべた。
はっきり言ってよく分からない。
マジレス禁止令と冗談の練習と放課後デートが成り立つ関係ってなんだよ、と思う。
しかし、大きく俯瞰してみると、一番単純な言葉が似合うことに気がついた。
「まあ確かに、妙な関係ではあるけど、普通にふざけた友人だと思うよ。お互い色気のある感じじゃないし」
言ってから、これは失礼だったかな、と思う。
実際、いわゆるセックスアピールが弱いことは否定できない。見た目がどうこうというより、言動が致命的に女の子らしくない。友人という位置にぴたりと収まってくる。
だから、僕と大森さんは友人だ。
言っていて自分で納得した。
「本多さんも、大森さんと仲良くしてみたら? ああ見えて結構人の話をよく聞くほうだから、話していて楽しいよ」
大森さんのことだから、ちゃんと相手の話を聞かないと文意に沿った冗談が言えない、とかそんな理由なのかもしれないけれど。人の話を聞くという事実に変わりはない。
ふうん、と本多さんはあまり感心関心なさそうに鼻を鳴らした。
同性の友達がいたほうがいいように思うけど、こればかりは僕がお節介を焼くのも出すぎたことか。
本多さんは友人というものに今ひとつ価値を感じていないところがある。
友達を作るということに、いまいち魅力を感じていないのだろう。気遣いとかそういう面ばかり気にしてしまう。本好きでマイペースということも、あるかもしれない。
「本は、もう読まないの?」
不意に本多さんがそんな質問をした。
一瞬何を問われたのか分からず、彼女の顔を見つめてしまう。伏し目がちの黒い瞳は、さっと逸らされ、髪に横顔が隠された。
「え、読む、けど。なんで?」
「冗談が好きなら、本なんて地味なことは嫌かな、って」
声すら前髪に隠すように、本多さんはうつむいている。
なぜそんな質問が来るのか、脈略脈絡に戸惑う。冗談と読書はそれほど掛け離れた行為なのだろうか。
「別に今までのものを捨てて生まれ変わろう、ってわけじゃないんだから。本多さんも言ったじゃないか、僕は僕だって。そんな無理には変われないよ」
言っておいて、なんだかおかしく感じられた。
しょせん冗談も身にまとうファッションと大差なく、僕の性根にある生真面目さは揺らぎもしないのだろうか。それとも、多少なにか、変わるものはあるのだろうか。
これは口先の建前なのか、僕の本音なのか、少し分からなくなった。
「……そう」
本多さんは、心なしか楽しそうにうなずいている。