鳥籠の中の鳥、あるいは1
「やられた」
ユーシスは軽く舌打ちすると、重い身体をなんとか起こした。身体に力を入れた瞬間、胸の傷がずくり、と主張し、眉をしかめる。
「逃げられた…あと少しだったのに」
知らず力の入った手の中で、くしゃりとシーツが皺になった。
「ユーシス様。まだ動かれてはいけません。傷にさわります」
ユーシスを押しとどめようと、傍らに控えていた召使いがさりげなく動く。空気を揺らしもしない、訓練された者特有の、流れるような動作だった。
「ああ、ルイスか。もう大丈夫だ、たとえ銀の刃で受けた傷とはいえ──、僕も一応夜の貴族だからね」
ユーシスは苦笑いして、胸をさする。剥き出しになった上半身には包帯が巻かれていた。白いガーゼには未だに血が滲んでいるが、それでもその傷口は当初よりだいぶ小さくなっていることだろう。
ユーシスが、屋敷に戻ってきたのは一昨日の晩のこと。相変わらず人気のない屋敷で、彼の帰りを忠実に待っていたのは、この召使いの青年一人だった。彼はユーシスの傷をみつけると、普段の無表情を崩し、少しばかり眉をひそめて、すぐにユーシスをベッドへ追い立てた。それからずっと、ユーシスはベッドの外へ出ていない。
ユーシスの包帯をほどき、傷の具合を確かめている間、召使いの青年は無言だった。
彼に黙られても、ユーシスは特に気にしない。彼はけして無口というわけではないが、あまり余計なことは喋らないのだ。二人の間の沈黙は圧迫するような重苦しいものではなくて、あくまでただ凪いだ湖面のように静かなだけだ。
そんな時、彼が何を考えているのかはさっぱりわからなかった。そして、興味もない。
「ユーシスさま、私はルイスではありません」
沈黙を破り、まるで今日の天気を告げるかのような感情の籠らない声で、青年が文句をつけた。どうやら先ほどの沈黙は、ユーシスに訂正の機会を与えるためのものだったらしい。
「あれ、そうだったっけ?ルイスは君の父親だった?えーと、ということは…」
「ルイスは祖父で、父はゲイン。私はジェスです」
そこで初めて、青年は若干呆れたような表情になる。
「ああ、そうそう。もちろん君はジェスだ。忘れてないよ」
ユーシスは笑ってさらりとごまかした。
ジェスの一族、フェデウス家は、代々ユーシスに仕えている。今はジェスの代であり、彼はユーシスの殆ど唯一といっていい召使いだ。しかし困ったことに、彼の一族は皆同じような顔をしている。それに加え、まるでそれが決まり事のように、常に無表情だった。
だからユーシスはいつも、隣にいる召使いが一体どのフェデウスだったか、解らなくなる。時々、ジェスを通して、代々のフェデウスに見られているような、そんな錯覚に陥ることがある。彼の意志は今までのフェデウスたちの総意であるかのような。それくらい、彼らの一族はよく似ていた。
もっとも、滑らかな浅黒い肌や、黒曜石のような瞳と濡れ羽色の髪という取り合わせは、この都には珍しいものだ。背が高く、落ち着いた表情と口調から、老成してみえるが、よくよく見れば、彼には若干まだ少年のあどけなさが残っていた。
「それより、逃してしまった」
「貴方を傷つけた娘ですか?」
ジェスは素早く言葉を返しながらも、手際よくユーシスの包帯を換えていく。
彼はとてもよくできた召使いだ。主人が何か言う前に、全ての準備を整えている。ユーシスはおとなしくされるがままになっていればよかった。
「いや、ちょっと違うな。僕に切りかかってきたのは、娘を助けに来た狩人の方だ」
ジェスには、殆ど何も事情を説明していないといってよかった。彼も詳しい説明を求めないものだから、珍しい銀髪の娘に会った、としか言っていない。
「ああ、なるほど。私はてっきり──。ユーシス様ももうお年ですから」
ジェスが若干哀れみの混じった視線を向けてきたので、ユーシスは憮然とした。
「酷いなあ。せいぜい1000年くらいだろう。娘にやられる程体力は衰えていないつもりなんだけど。それにしても、狩人にやられるのは久しぶりだよ。かなりのやり手だろうなあ、彼は」
実際、危なかったのだ。なんとか逃げおおせたのも、相手が逆上していて冷静ではなかったおかげだった。それでも、怒りのこもった最初の一閃は避けきれなかった。
「娘を逃すのもあたりまえです。こんな大けがをされては──、貴方の力も相当弱まってしまいます」
ジェスは新しい包帯をきつく巻いていく。ユーシスは思わず呻いた。手加減してくれ、と泣き言を言っても、ジェスは容赦する気はないようだ。
相手にしてくれないジェスにそれ以上文句をいうことを諦めて、ユーシスはぶつぶつとぼやいた。
「一日目で失敗したとなると、もう望みは薄いなあ。明日明後日は血の拘束が弱まっていくだけだし──」
いったんはその場から退散したものの、今日も娘を取り逃がすとは全く予想していなかった。
繋がった血の鎖を辿って呼びかけてみたものの、強烈に押し返される感覚──おそらく、結界だろう──と、何か神聖な気配を感じた。昨日の手強かった狩人が、そのまま守りの騎士になったのかもしれない。
勝負事に対して、あまり熱くなることもないユーシスだが、なんとなく面白くない気分だ。
「よろしいではありませんか。逃しても」
ジェスにさらりと言われて、ユーシスは目を瞬かせた。
意外だった。ジェスのように献身的に仕える立場の者ほど、主人の夜の貴族としての誇りが傷つくのに敏感だと知っていたからだ。特に、矜持が高いのは吸血鬼の基本属性のようなもの。
「血の免疫を身につけた者は殺さねばならないのが厄介ではありますが、お怪我さえ治ればユーシス様には簡単なことでしょう」
「あ、ああ…そうだね」
淡々とした言葉に、気圧されたようにユーシスは頷く。確かにその通りだった。
自分は何を──固執していたのだろう。
血の免疫を得た者は、吸血鬼にとっては脅威になり得る。だからこそ、免疫者を生み出した吸血鬼には、その者を殺す義務が課せられる。
今まで、ユーシスの血に対抗して免疫を得た者は誰一人としていなかった。だからといって、そんなつまらないことに誇りを感じていたわけではないはずなのだが。
ただ言うならば、わざわざ免疫者を探し出して殺すのが面倒だということくらい。
「アーシャ、という名前だった」
駆けつけた狩人が呼んでいた名だ。
ジェスが少し驚いたように目を見張る。
「珍しいですね、ユーシス様が名前を覚えているなんて」
「君もたいがい失礼だね」
「本当のことでしょう」
「ジェス──、僕が悪かったよ。今度は君の名は間違えない」
「それはそれは。期待しておきましょう」
ユーシスが愛想良い笑みを向けても、ジェスは相変わらず辛辣な言葉で返す。
「アーシャ、か…」
舌の上でその名を転がしてみる。凛とした響きは、彼女の銀色の髪と、鋭い視線にぴったりだと思った。あの銀色の髪は、少し、殺すには勿体ない。
風が戯れにふわりと頬をくすぐる。窓の外に目をやると、すっかり空が白んでいた。──そろそろ寝る時間だった。