闇の淵で見失うもの3
──アーシャ。
不意に、どくり、と全身の血が波打つ。躯の温度が一気に上昇する。どうしようもない衝動が背筋を突き抜けて、再び、アーシャの頭の中の声が大きくなった。
それは、耳を通さず直接脳に働きかけてくる。振り払ってもなお、しつこく、しつこく絡み付いてくる。
──君のいるべき場所は、そこじゃないだろう。
次の瞬間、アーシャは力いっぱい身を捩っていた。いきなりの抵抗に拘束が緩んだすきに、纏わりつく腕を振り払い、リュークの下から抜け出そうとする。
半身を起こしたところで、すぐにリュークは最初の驚きから醒めたようだった。再び捉えようとする彼ともみ合って、とりあえず手当たり次第にひっかいた。それでもリュークは全く怯まず、圧倒的な力にアーシャは再び押さえ込まれそうになる。
無意識に左手がベッドサイドをまさぐり、そこに置いてあった水差しを掴んでいた。
「アーシャ!」
目の前のリュークの慌てた声が、なぜか遠くで聞こえた。考える暇もなく、思いきり、左手の水差しをリュークの頭に振り下ろす。
がしゃん、と大きな音がして、白い陶器は粉々に飛び散った。まるで時間の流れが突然遅くなったかのように、白い破片はゆっくりと散らばって行く。同時に紅い色が視界に散乱する。
鉄臭い匂いが鼻をついた。
「あ…」
アーシャはその生々しい匂いに動きをとめた。まるで糸の切れた操り人形のように、身体からするりと力が抜ける。
頭の中が、光がはじけたように真っ白になった。そして次に、怒濤のように、過去の記憶が一気に押し寄せた。黒と白と、鮮やかな紅に色づいた映像の渦に、ちっぽけな自分が飲み込まれる。
目の前で飛び散った紅。何をすることもできず、隠れて泣くことしかできなかった、幼い日の自分。
震えてまともに動けないアーシャを無理矢理ベッドの下に押し込んでくれたのは、優しい母だった。最後に頭を撫でたのは、誰よりも強いはずの父だった。いいかい、私が迎えにくるまで、ここでじっとしてるんだよ。
でも、ならば、目の前で動かない白い腕は、一体誰の──?
「アーシャ!」
引き戻すように強く抱きしめられて、はっと我に返る。
──今、自分は何を?
耳元で、大丈夫だ、と。優しく宥めるような声がした。
遅れて、自分ががたがたと震えているのに気づく。無音だった世界に、荒い自分の息づかいが戻ってくる。
「兄さま…?」
縋りつくようにして、リュークの白い長衣を握りしめた。力をこめすぎて、指先が白くなる。
「アーシャ、落ち着け」
「母様と父様が…わた、私は何もできなかった…私のせいで二人は…」
自分でも何を言っているのかわからない。ただ、どうしようもない焦りと、そして罪悪感が口をついてでた。
「私が、殺した」
ぽろりとその言葉がこぼれでて、愕然とした。自分の言ったはずの言葉なのに、耳障りな金属音を聞いたかのように、鳥肌が立つ。
「そう、わ、わたしが、」
その先を封じるように、そっと手で口が塞がれる。
「何度も言ってるだろう。それは、おまえのせいじゃない」
大丈夫だ、と。
耳元の低く掠れた声が、不思議なほど心に染み渡った。
頭に心地よい重みが加わって、頭を撫でられているのだと気づく。それは、少しばかり懐かしい感触で、絶対の庇護が与えられていた幸せな時代に戻ったかのように、アーシャを錯覚させる。
「安心しろ。私がいる」
その一言で、強ばっていた全身から、徐々に力が抜けていった。何かに赦されたような気持ちになって、心を締め付けていた罪悪感がふわりと溶けた。
安堵すると、視界はみるみるぼやけて、何か温かいものが溢れるように頬を伝う。己の身を切って絞り出すような涙ではなく、心の緩んだ隙間からつい哀しみの残骸を押し出してしまった、そんな涙だった。
生理現象のままに、しゃくりあげると、温かい手が背中を優しくさすった。
労るようにゆっくりと、まるでアーシャの涙を誘って、膿みを全部吐き出させてしまうかのように。
アーシャを追い立てる頭の中の声は、いつのまにか消えていた。
* * *
どれほどそうしていただろうか。
真綿のような温かさに包まれて、アーシャは世界から自分を守るように、小さく縮こまっていた。
瞼の裏がうっすら赤くなって、目をゆっくりと開ければ、窓から朝日が差し込んでいた。眩しさに目を細めつつ、そっとリュークの胸を押すと、するりと解放される。
「兄さま、怪我が…」
リュークの染み一つないまっさらな白い袖に、紅い血が滲んでいた。あの時、アーシャが水差しを振り下ろした時、彼は咄嗟に腕で頭を庇ったのだ。この傷をつけたのは紛れもなく自分であることに思い当たって、アーシャの顔から血の気が引いていく。
「触るな」
固い声に、伸ばしかけていた手をひっこめる。恐る恐る顔をあげると、リュークは微かに眉を寄せて、目線を逸らした。
自分に触れられるのは許せないのだろう、と思った。アーシャがつけた傷だ。アーシャに手当する機会が与えられなくて、当然だ。また涙が溢れそうになって、慌てて瞬く。
「たいしたことはない」
俯いて黙っていると、すぐにリュークがすっと離れた。先ほどまで密着していたのが嘘みたいに、いつもの距離が二人を隔てる。けして遠くはないけれども、けして縮まることもない、絶対の壁。
それが、リュークからの相変わらずの拒絶を示していて、アーシャは自分のおめでたさを笑ってやりたくなった。もしかしたら昔の兄に戻ってくれたのかもしれないなんて、そんなに都合の良すぎることをどうしてちょっとでも期待してしまったのだろう。
シーツの上には、アーシャとリュークの関係のように、もう二度と元に戻ることのない、割れた陶器の破片が散らばっていた。アーシャが片付けようとするのを制して、リュークがそれを拾っていく。
なす術もなく、ただ見ているしかできない自分がもどかしい。いつもそうだ。アーシャは何もできない。させて貰えない。
嫌われているのなら、せめて役に立つと認めて欲しいのに、そのやる気はリュークの前では空回りするばかり。
誰の役にも立てないならば、自分はここにいる資格なんてないのに──。
「手をみせてみろ」
おとなしく手を差し出すと、リュークは指先に少し切り傷があるのを確かめて、ますます眉間に皺を寄せた。アーシャは縮こまって、彼が何を言いだすのかを待つ。
「あとで、薬を届けさせる。それで消毒しておけ」
何の感情もこもらない声が、降って来た。アーシャは頷いて、ごめんなさい、と小さな声で呟いた。