口づけのもたらす効果2
あれは、いつだっただろう。初めて人を食らった日だったろうか。彼にもそんな日はあったのだ。
その日、絶望に泣きながら蹲った道ばたに、たまたま銀色の花が咲いていたのだった。群れることもなく、孤独にりんと闇に浮かび上がる汚れないその色に、羨望にも似た気持ちを覚えた。しかし、同時にわけもない怒りも沸き上がった。
そっと血に汚れた手で触れると、銀の花も同じように紅く染まって、不思議と胸がすっとしたのを覚えている。汚れないものなどない。自分はそう示したかったのだろうか。
──どんな人間だろう。
ユーシスはふと興味がわいた。そんな自分に少しおかしくなる。何かに興味がわくなど、何百年ぶりのことだろう。けれど、何にも興味を抱けない自分に、彼は少し失望してもいたのだ。たまには、夜道の散歩もいいのかもしれない。
彼が少し本気を出せば、その人間に追いつくことなど容易いことだった。銀色の長い髪に、白い上質な絹のドレスを身にまとった、驚いたことに、それはまだ若い娘だった。
「君、こんな時間にどうしたの?」
ユーシスは無意識に呼びかけていた。そして、我に返って自分の行動に驚く。
ただ後ろから様子をみるだけのつもりだったというのに。わざわざ面倒事を引き起こすような真似をしてしまった自分に、舌打ちしたくなる。今日は、何かが狂っている。
声に反応した娘は素早く振り返った。碧色の両の瞳には、はっとするような鋭い意志が宿っていた。そこに、祈りなどない。ただ自分を信じる光があるだけだ。
──まるで、冴え渡る刃のようだ。
ユーシスはぼんやりと思った。
「おまえは──」
可愛らしい赤い唇から紡ぎだされた声は、姿に似合わず低い声だ。娘は驚いた表情で後さじる。
「吸血鬼か…!」
柄にもなく興奮したのか、知らぬまに瞳が紅く変化してしまっていた。気づいても、もう遅い。
それでも、ユーシスはさほど慌ててはいなかった。娘一人、どうにかなるだけの力は持っているつもりだ。ただ、このまま叫ばれて狩人でも呼ばれると厄介だった。
「──ごめんね」
ユーシスは素早く娘を抱き寄せると、逃す前にしっかり腰を掴んだ。澄んだ碧色の瞳が見開かれる。さら、と銀髪が絹糸のように彼女の白い頬の上を滑った。
助けを求めようと開かれた彼女の唇に、ユーシスは反射的に自分の唇を押し付ける。
「ん…っ」
唇は、想像以上にふわりとして柔らかかった。
逃げようとする唇を追いかけて、更に深く浸食する。口の端から、どちらのものともわからない熱い吐息が漏れる。僅かに娘の抵抗が弱くなった。
その隙に、素早く娘の両手を片手でまとめあげて、すぐ脇の壁に押さえつける。娘が慌ててばたつかせる体を、自身の体で圧迫して無理矢理従わせた。
そのまま空いている手でそっと白い首筋に触れる。そこで初めて、びくり、と娘が震えた。
怖がっているのだろうか。ユーシスは愛しい気持ちになる。獲物がなす術もなく怯えているのを見るのは、愛しい。
──食べたい。
愛しさとともに、不意に沸き上がったのは、野生の衝動だった。
飢えの感覚を思い出すのは久しぶりだ。何百年と眠っていた凶暴な本能が、ゆっくりと解き放たれるのを感じる。体の奥がかっと熱くなり、そんな自分に戸惑いつつも、どうしようもない衝動に突き動かされる。
この滑らかな首筋に、自分の牙をつきたてたなら、どんな味がするだろうか。一度想像すると、もう我慢はならなかった。
娘の膝から力が抜けて崩れ落ちそうになるのをしっかりと支える。そして唇をいったん離すと、あとは一気にその細く折れそうな首筋に噛み付いた。