口づけのもたらす効果1
悠久の時の中で生きるのは拷問のようだと、ユーシスは思う。永遠の時を願う人間たちは、ただ自分たちが手に入らないからこそ不死に憧れるのだろう。愚かで幸せなことだ。
永遠の中では、毎日はただ消化していくものにすぎない。代わり映えのない毎日がゆっくりと沈殿していくだけだ。どんよりとした倦怠感は今やすっかり体の隅々まで染み付いていた。
ユーシスはアランに引きずられるようにして、石畳の上を歩いていた。
夜の深い闇の中でも、その端麗な姿は色あせることはない。ややウェーブのかかった豪奢な金髪は、発光しているかのようで、紅茶色の瞳は魅惑的に煌めいていた。すらりと長い手足は、貴族らしい洗練された動作を更に優雅に見せる。
しかし、ユーシス自身はそんなことに頓着していない。彼が考えているのは、一刻も早く、この『朝早い』散歩から解放されたい。それだけだ。
「ユーシス、なんでさっきから溜め息ばっかりついているんだ」
「アラン、おまえは、なんでそんなにいつも楽しそうなんだ」
ユーシスはもう何度目か解らない欠伸をした。彼は寝起きが悪い。低血圧なのだ。
「逆に聞きたい。おまえはなんでそんなに楽しくなさそうなんだ?これから人間を狩りにいくっていうのにさ」
アランは不思議そうにユーシスを見返した。その瞳は狩りへの期待からか、すでにうっすら紅く輝いている。反対に目立たない鳶色の髪は闇に沈んでみえた。
「僕たちくらいの力があれば、そんなに血を飲まなくても平気なはずだ。わざわざ城下にまで降りて、人間を狩らなくてもいいだろう?」
ユーシスは深い溜め息をつく。
「わかってないな、ユーシス。これは俺たちの遊戯だ」
アランはにやりと笑って手を広げてみせた。芝居がかった調子で続ける。
「俺たちは人間の女を追いつめて、いたぶって楽しむ。あの白い柔い肌に牙をつきたてる時の快感を──おまえは忘れたとでも?」
「わざわざ、城下にまで降りて来てすることじゃない。手近に貴族の令嬢たちがいるじゃないか」
アランはむっとしたように眉をしかめた。
「おまえは何もしなくてもあっちから餌になりにきてくれるようなものだからな。全く、とっかえひっかえしやがって。贅沢なことだ」
「贅沢?──面倒な時もあるよ」
ユーシスは自分に言い寄ってくる沢山の娘達の姿を思い浮かべた。彼女達は、確かに可愛い。甘い言葉を囁くとすぐその気になってしまう愚かさも、愛しいと思える。
しかし、夜の遊戯は、所詮は夢。次の日の朝には醒めてしまう、儚いうたかたの快楽だ。
「面倒?全く、それが贅沢だっていうんだよ」
今度はアランが溜め息をつく番だった。
しばらくして、唐突にアランが立ち止まった。ユーシスはあたりを見回す。いつのまにか、城下街の中でも、西側の裕福な家の立ち並ぶ区画に入っていた。
月の都は、東と西で街の様子がだいぶ違う。東側は小さな水路が入り組み、大小様々な建物が雑多なたたずまいを晒している。一方で、西側はます目のような区画に沿った水路と小道が、大規模な邸宅の間を並走していた。
どうやら、今日はこの辺りで狩りを行うらしい。
「ここからは別行動だ」
アランが期待に満ちた様子で、心底嬉しそうに言った。
「わかったよ」
ユーシスは友に向かって当たり障り無く微笑んでみせる。しかし付き合いの長いアランは、かえって警戒したように、ユーシスを睨んだ。
「いいか、ユーシス。おまえもちゃんと狩りを楽しめよ。明日話を聞くからな」
気圧されてユーシスは頷いた。アランはどうしても、友と狩りの楽しみを分かち合いたいらしい。面倒なことだ、とユーシスは心の中でそっと呟く。
「ああ。せいぜい狩りを楽しんできてくれ」
「だから、おまえもやるんだぞ」
念押しするアランをうまくあしらって、ユーシスはひらひらと手を降りながらアランを見送った。
アランの姿が消えると同時に、ユーシスは早速踵を返す。
彼は、最初から狩りをするつもりなどなかった。狩人にみつかって面倒なことになる前に、城にさっさと帰りたい。明日アランには、適当な作り話をすればいいだろう、と軽く考えていた。
彼はけして快楽が嫌いなわけではない。ただ、面倒なことがそれを上回るほど嫌いなだけだ。吸血鬼たちが人間を狩ることにどうしてそんなに情熱をそそげるのか、心底理解できない。
吸血鬼はもともと人に比べて欲がないが、ユーシスは特に、執着心というものを持ったことがなかった。
ユーシスは、わざとらしくない優雅な身のこなしで石畳を歩いて行く。夜道はひっそり静まりかえり、彼のブーツの固い足音だけが響き渡る。
微かに家の窓から漏れる光だけが、街の人間たちの存在を示していた。彼らは、夜にはけっして外へ出てこようとはしない。月の都は、昼と夜では表情を変えることを、街の住人ならば皆知っているのだ。それが彼らの生きる智慧。
しかし、今日はどこか様相が異なっているようだった。その証拠に、ユーシスは遥か向こうに、銀色の光をみつけた。
何だろうと、内心で首を傾げる。少しばかり気になって目を凝らすと、どうやら、それは人間のようだった。
このような刻限に出歩くとは、一体どうしたというのだろう。少なくとも、狩人ではないようだ。彼らは皆、目立つ白いマントを羽織っている。
危急の用事があった、その帰りなのか。震えながら、己の幸運を信じて、何事もないことを祈って歩いているのだろうか。
──それにしても、銀色の髪など、珍しい。
ユーシスは目を細めてその後ろ姿をじっとみつめた。街灯の光を映して闇にぼうと浮かび上がる銀は、ふわりと風に靡いて揺れる。その光景は、ごく自然に、遥か昔の懐かしい記憶と繋がった。