真実をつげる意味
「リューク、おまえはオセロというゲームを知っているか」
「ええ、存じております」
「これはそのゲームのようだと思わないか?この月の都を舞台にした、壮大な、不可逆のオセロゲームだ。一度黒になればもう白へは戻れない。ただ死のみが彼らの尊厳を回復する」
「神から託された、悪魔との戦いではないのですか」
「全能の神が、我々に戦いを託されたりするだろうか?──我々は神に試されているのだとは思わないか」
「私には、理解しかねます」
「残念だ。君もいつか気づく時がくるだろう。これは誰がいつ始めたのかもわからない、太古の昔から続く、神と悪魔のゲームなのだよ。私たちは、踊らされているだけだ。君も私も、教会も国王も、そして吸血鬼もね」
「私も残念です、ジュダ様。先日の審議会によって、貴方の処分が決まりました。──教会からの指令により、貴方を第一級罪人として、処刑いたします」
* * *
月の都、とその街は呼ばれる。
王が住まう城の城下街は、道の代わりに、入り組んだ迷路のように水路が張り巡らされていた。船頭の操るゴンドラーナが活発に行きかい、人々を運ぶ。
しかし、夜になると、賑やかな雰囲気はなりをひそめ、静謐な空気が街を支配する。水路の水面は穏やかにさざめいて、頭上に浮かぶ月を映し、反射した光は石造りの建物の壁に淡い影をゆらすのだ。
ここは、さざめく水と月の影の都。
本当の名は、誰も知らない。永い時の流れに忘却の海へとおしやられてしまった。
──その都の、人通りの少ない裏水路。
遠くで、黄昏を伝える鐘の音が鳴る。それ以外には、櫓をこぐ規則的な音が眠たげに響くだけで、あたりは静かだった。
建物の隙間から差し込んだ西日が水面で黄金色に輝き、暗く狭い空間に、一時の光の洪水を生み出していた。
「おや、アーシャ殿ではありませんか」
アーシャが船頭に礼を言いながら船を降りると、目的の扉の前にキースが立っていた。ひょろりとした体躯の男は、どうやら扉から出て来たばかりとみえる。狐のように細い目をさらに細めて、キースが笑った。
アーシャは、その場で回れ右をしたくなった。この男が苦手だ。その細い目の奥で何を考えているのかがいまいちわからない。それに、その道化じみた態度も厭わしい。
礼を失しないように無言で会釈すると、さっさと扉に手をかける。
「今日はリューク殿とは一緒ではないのですか?」
背後から投げかけられた言葉に、アーシャは動きをとめた。
「一人です」
「それは──、いささか危険なのでは?」
「私は狩人です。そしてここは、その本部。何が危険だというのですか?仮に危険だったとしても──、自分の身くらいは自分で守れます」
振り返ってきつく睨みつけると、おやおや、とキースが肩をすくめた。相変わらずの、人を食ったような態度。相手にしても、仕方ない。アーシャは苛立った心を宥めると、一人さっさと扉を開けて中へ足を踏み入れた。
「気を付けて、アーシャ殿。狩人が常に貴女の味方とは限りませんよ」
キースが微笑みながら、小さく呟いた言葉は、アーシャに届くことなく、宙に浮いて消えた。
* * *
扉の中は、薄汚れた外観からは想像できないほどに整っていた。
床には磨かれた白い大理石がしきつめられ、大理石の柱が通路の両脇に規則的に並ぶ。
柱のかたわらで、白いマントを羽織った体格の良い男たちが賑やかに歓談していた。彼らもアーシャやキースと同じ、狩人たちだ。
アーシャが足を踏み入れた途端、その男たちから一斉に、刺すような視線が向けられる。しかし怯むことなく、アーシャは堂々と前を向いた。悪意を向けられる者は、けして隙をみせてはいけないのだと、ここ数ヶ月の経験で学んだ。
「なんでこんなとこに女がいるんだ?子供の遊び場じゃねえぞ」
「女は黙って家の中で震えてりゃいいんだよ」
揶揄の声が飛び交い、男達はどっと笑った。最初は戸惑った罵詈雑言も、今はもう慣れっこだ。アーシャは無視して、先を急ぐ。相手を待たせては、失礼になる。
アーシャがわざわざ本部を訪れたのは、教会から一通の封書を受け取ったからだった。
差出人は、カデル大司教。数日前に聖地の巡礼から返って来たばかりの、教会一、二を争う権力者である。
「大司教様。それは本当ですか」
通路の突き当たりにある狭い一室。アーシャは大司教の口から告げられた言葉に、礼儀も忘れて大声をあげた。アーシャを呼び出した張本人であるカデル大司教は、重々しく頷く。
「そうだ、アーシャ=イグラゼル。信じられないのも無理は無い。しかしこれは、まごうこと無く本当のことだ」
「ですが…!国王が吸血鬼と通じているなどと…国を売ったも同然ではありませんか」
「通じている、などというところではない。国王は奴らに爵位を与えている」
アーシャは絶句した。
とっくに日は落ち、室内には蝋燭の灯が頼りなくゆれている。火影がカデル大司教の顔に、憂いのように濃い影をおとしていた。
カデル大司教は、アーシャが落ち着くまで少し間を置いた。
「国王陛下は、教会を厭うている。だからこそ、教会の敵である吸血鬼たちを味方に引き入れようとしているのだ」
信じられない、信じたくない事実だ。本来庶民を守る義務を背負う貴族たちの中に、吸血鬼が紛れ込んでいるなどと。しかもそれは、国王自身の意志によるという。
アーシャは、自分の心が怒りに震えるのを感じた。自分たち狩人が城下で必死に吸血鬼を追い払っているのを、かれら貴族は笑って見物していたのだろうか。けして手の届かない高みから。
「貴族となると、なかなか手を出せない。かといって、この事実を広めれば、民の多くは絶望してしまうだろう。それゆえに、この事実は秘せられてきた」
カデス司教が、アーシャが部屋に入ってすぐに人払いをしたのも、そのせいなのだろう。
「このことは──、誰が知っているのです?」
「大司教以上は皆知っていることだ。おまえの兄、リュークにも私が伝えた」
アーシャは正直なところ、戸惑っていた。
「そのような秘密を、なぜ私に?私はまだ若輩で…司祭の位も賜っておりません」
「おまえは、リュークの妹だから信頼もおける。それに、これから関わってもらう任務に関係があるのだ」
大司教の本音は後者であろう、とアーシャは冷静に考えた。確かにリュークは優秀な狩人であるし、上司からの信頼も厚い。しかし、彼に比べて、自分が劣っていることは彼女には痛い程よく解っていた。
「それは、その貴族の吸血鬼に関する任務ですか」
「そうだ。おまえには、王宮に入り込んでもらいたい。きたる日に向けて、調査を行って欲しい」
アーシャはごくりと唾を飲み込んだ。王宮は、庶民のけして入り込めない場所だ。下働きの者でさえ、王宮関係者の紹介を要する。ましてや、国王と対立する教会の者など、向こうが歓迎するはずもない。
カデル大司教はアーシャの動揺すら見透かすように、真っすぐみつめてくる。
彼は20代にして大司教になった生え抜きの狩人だった。だからだろうか。紺碧の瞳には、人を飲み込むような、有無を言わさぬ圧倒的な力がある。
「できるな?おまえは、両親の仇をとりたいのだろう?」
「──はい」
「復讐は本来許されないことだ。しかし、神は悪魔たる吸血鬼対してのみ、それをお認めになった」
アーシャは頷く。
「おまえには追って指令状を出そう。──神の祝福があらんことを」
カデル司教はそれ以上のことは言わなかった。話は終わったのだ。アーシャは未だに尾を引く動揺を押し隠して静かに一礼すると、その場から退出した。
部屋を出ると、見知った顔が待っていた。そわそわと落ち着かなくしていたが、アーシャを見つけるとぱっと顔をあげ、金の巻き毛を揺らして、嬉しそうに駆け寄ってくる。
「アーシャさん!」
「セシル殿。どうしてここに?」
「ええと、アーシャさんに会いに!」
セシルが思わず、と言ったように即答する。アーシャは戸惑って目の前の上司──セシルをみつめた。
彼は、大きく丸い蜂蜜色の瞳に、生まれつき癖のある渦巻いた金髪という、天使のような愛くるしい容貌の持ち主だ。そのせいか、頬を赤らめてうつむくと、本当にうら若い少女にみえる。
けれど、その肩に光る紋章は間違いなく司祭の証。アーシャよりも階級は1つ上だった。教会の中で、女というだけでアーシャを罵ったりしない、希有な存在でもある。
彼はアーシャの直属の上司ではないが、なぜかアーシャの行く先々で会うことが多い。
「カデル大司教は、巡礼から戻られたんですね。何のお話だったのですか?」
「新しい任務についてです」
「どんな任務ですか?」
「任務について話すのは禁じられています」
教会の掟を解っていないはずがないのに、セシルが残念そうに溜め息をついた。取りつく島がないというのは、このようなことをいうのですね…と呟くのがちらりと耳に入ったが、どういう意味なのだろうか。
アーシャはちらりと壁の時計をみた。そろそろ屋敷に戻らねばならない。明日は早朝の見回りの当番が入っている。
「それでは、私はこれで失礼します」
「えっ。待ってください」
セシルが慌てた様子でアーシャの袖を掴んだ。しかし、顔を赤らめて、なかなか次の言葉を言わない。首を傾げてアーシャが促すと、もじもじしながらやっと言った。
「あの──、夜道は危ないですから、僕が送ります」
「そんな、セシル殿のように忙しい方に送っていただくわけには参りません」
アーシャはびっくりして断った。
「いえ!僕は今日はもう仕事は終わっていて」
「ほら、部下の方が呼んでいますよ」
遠くから、部下がセシルの名前を呼びながら走ってくる。セシルはそれでもまだ何か言い足りないようだったが、アーシャはそっと袖から彼の手を外した。
「ではまた。兄にもよろしくお伝えください」
「リュークさんならば、アーシャさんの方が会っているでしょう…」
いぶかしげにセシルが言う。アーシャは兄の顔を思い浮かべた。もうどのくらい顔を会わせていないだろう。あの厳しい視線も、冷たい言葉も、今は遠い。
「兄は最近、滅多に屋敷に返ってこないのです」
セシルは、はっとしたように口を噤んだ。伺うような視線に、アーシャは少し微笑んで答える。少し気を使わせてしまったかもしれない。けれど、リュークを知るセシルにだからこそ、このような弱音ももらせる。
アーシャが礼をして扉を出るまで、セシルは黙って見送ってくれた。
この時、セシルとともに帰っていたならば──アーシャは後に後悔することになる。