賽は投げられた1
「アリシア!」
少年は息せききって、走って行く。冷たい風が頬を叩いても気にしない。はやる気持ちが彼をせき立てる。
もう一度声を張り上げると、長い回廊の途中、箒を持って掃除をしている少女が手をとめた。
少女は振り返ると、微かに微笑んだ。本当に僅かだが、眼鏡越しの碧の瞳が柔らかい光を帯びる。出逢ったばかりの頃とは違って、今ならそれがわかった。
自分だけに見せてくれる、隙のある表情に、いつも少年はちょっぴり優越感を覚える。
「今日は、赤い薔薇が咲いたんだ」
どうしても誇らしげになる声を抑えきれず、ほら、と手に持った小さな赤い薔薇をかかげた。世界中の華を集めたといわれる宮廷の庭から、今朝1番に手折ってきた。紅い花弁に一雫残った朝露が、陽の光をうけて水晶のように煌めく。少女は眩しそうに目を細めた。
「綺麗ですね」
「アリシアの黒い綺麗な髪に似合うと思って。庭師のおじさんに言ったら、特別に内緒で一本だけくれたんだ。つけてみて」
少女は髪止めを外すと、請われるままに、その薔薇を耳元に差した。
「やっぱり、アリシアは美人さんだね。碧の瞳も、まるで宝石みたい」
素直な感嘆の声に、少女は困惑気味に少し首を傾げる。
「ルー。貴方はどこでそんな台詞を覚えてくるんですか」
少年──ルーはもどかしい気分になった。
この少し素っ気ないが根は優しい少女は、自分がどんなに美しいのかを知らないのだ。美しさを磨いて競っている宮廷の貴族の娘たちより、どんなに清廉で凛としているか、知らないのだ。
「本当にそう思っているから、そう言ってるんだよ?」
「ルーは将来、女の子泣かせの男の子になりそうですね」
むう、と頬を膨らませて拗ねてみせると、少女が苦笑した。
「妹さんの具合はどうですか」
少女が遠慮がちに、聞いた。それから、少し後悔したように唇を噛む。その躊躇いが、彼女の心優しさを現していた。だから、ルーは言葉を選ぶ。
「うん、相変わらずだよ。でも、もうすぐお金が溜まるんだ。そうしたら、街で一番腕の良いお医者さんに見てもらえるから」
「よかったですね」
少女は、ほっと安堵したように喜んでくれる。ルーも、ほっと安堵する。少女を心配させずにすんだことに。
「でも、なにかあったら相談してくださいね。私にできる限りのことはしますから」
少女は真摯な瞳でルーを捉えて、しっかりとした口調でいった。
ルーは胸がずきんと痛むのを感じながらも、胸の中にたまっているもやもやとしたものが、油断すると口から出てきそうになるのを抑えた。アリシアには、言えない。全てを知った彼女が、一体どのように思うかを考えたら、恐ろしくてとても口には出せなかった。
だから結局、笑って頷くにとどめる。
「アリシア」
そこへ、別の男の声がかかった。少女が途端にすっと無表情に戻る。
ルーは若干の敵意をこめて、背後から現れた男を睨みつけた。
相変わらず、気配もなく現れて薄気味悪い。影からそのまま出て来たように存在感の薄い、ひょろりと背の高い狐目の男だ。アリシアの少し前から王宮にやってきて、庭師の仕事を手伝っている。今も、手に剪定鋏を持っていた。鋏が鈍く光るのがどことなく不穏で、ルーの眉が自然と寄る。
「──キース。何か用ですか」
「ええ、少し急ぎ連絡したいことがあります」
ちら、とキースが少年に目をやる。少女は少し眉尻を下げて、男の意を汲んだ。
「ごめんなさい、ルー。ちょっと二人で話があります」
「わかったよ、アリシア。また明日ね!」
内心むっとしながらも、アリシアに次の約束をとりつけるのは忘れずに、渋々とその場を離れる。
いつも少年を邪魔者のように扱うから、ルーはこの男が嫌いだ。
けれど、アリシアがいつも心底申し訳なさそうに謝るので、だだをこねたりはできなかった。 ルーは回廊を元来た方向に戻りながら、ちらり、と後ろを振り返った。二人はなにやら真剣な顔で話し込んでいるようだった。
少女の元へ、度々訪れる男。嫌いな理由は他にも沢山ある。毎回少女の元へ何か良くない知らせを持って来ているに違いない、と思っていた。せっかく見せてくれる僅かな、固い蕾がようやくほころぶような微笑みを台無しにしてしまうのは、いつもあの男だから。
自分にもっと力があれば、とルーは考える。自分が子供ではなく、もっと力のある大人だったなら、アリシアの相談にも乗れるだろうし、あの男から守ってやることもできるだろう。そして、たった一人の妹も守れただろう。
けれど、時間は待ってはくれない。ルーが大人になるよりも早く、その期限はやってくる。
『3日後だ』
脳裏に声が蘇った。決断しなくてはいけない。子供の自分にできるのは、ただそれだけだ。