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月の都  作者: かの@
10/12

鳥籠の中の鳥、あるいは3


 リュークがアーシャの部屋を訪れたのは、翌日の朝だった。冬の柔らかな朝日は、室内に行き届かずまだ薄暗い。人の気配に驚いたのか、眠たげな鳥の声が、ふと途絶えた。


「何か、不自由はないか」


 いつもと変わらない端正な立ち姿に、感情の伺えない落ち着いた声音。少しだけ顔色が悪いような気がしたのは気のせいだろうか。アーシャは急いでリュークに駆け寄った。


「兄さま、どうして、こんなことをするのです」


 毅然と問いただすはずだった。けれど、兄が次にどう答えるのかを考えると、緊張に声が震えた。

 アーシャが怖いのは、魔物でも吸血鬼でもないのだ。ただこの目の前の人が、怖い。大切だからこそ、拒否されることがたまらなく怖い。


「昨日はきちんと食事を食べなかったそうだな。出されたものはきちんと食べろ。我が侭は感心しない」


 リュークは顔色一つ変えずに、アーシャの言葉を無視した。アーシャは思わず彼の腕を掴む。お願いだから、こっちを見て欲しい。祈るような気持ちだった。


「なぜ、閉じ込めるようなことをするのですか?私が、そんなに目障りなのですか?…答えてください」


 リュークは先ほどから目を合わそうとはしない。アーシャに一瞥もくれず、その視線の先はどこをみているのか。言葉を探すような少しの沈黙の後、リュークがゆっくりと口を開く。


「ああ。──目障りだよ。おまえの声も、その姿も。おまえが視界の端に入るだけで、苛々する」


 アーシャは息をのんだ。

 前々から、察していたことだ。けれど実際に、言葉にして言われたのは初めてだった。

 掴んでいた手を離すと、リュークが向き直り、初めてアーシャの目をみた。相変わらず、何を考えているのかわからない、蒼い瞳。深くて、澄んでいて、それでいて切りつけるように鋭い。

 昔はそれでも、自分にとっては優しく見守ってくれる視線だった。今はただ、心をずたずたに引き裂いていく。

 嫌だ、と心が叫んでいた。これ以上、聞きたくなくて、耳を塞いで逃げ出したかった。けれど更に追い打ちがかかる。


「おまえがいると、仕事がはかどらないんだ。わかるだろう?おまえはラーンフォール家の者じゃない。その姓を名乗れない。だから、狩人シャスールになる必要も、資格もない」


 どん、と胸を抉られたような痛みが突き抜けた。膝から力が抜けそうになって、アーシャは必死に堪える。今のアーシャに、差し伸べられる手はない。

 ラーンフォール家に引き取られた時、彼女に与えられた姓は、「イグラゼル」。『神の子』という意味のその姓は、名乗る姓を持たない孤児に与えられるものでしかなかった。

 貴族ではないにしろ、多くの神官を排出してきた名家の姓を名乗れないことは、仕方がないと思っていた。そんな姓を気にする必要もないくらい、義理の両親は惜しみない愛情を注いでくれた。

 けれど、やはり自分はラーンフォールの家の者ではないのだと。名乗る度に思い知らされるのも事実だった。


『おまえは、私の妹だ。だから、気にする必要はない』


 そんな自分の翳りに気づいて、さりげなく気遣ってくれたのは、他ならぬリュークのはずだった。その言葉に、どれほど救われたか。

 けれど今、本人がその言葉を否定する。

 おまえは、「要らない」のだと、そう言って。


「…もういいだろう。私に迷惑をかけるな。きちんと食事をとれ」


 離れた手を、再び伸ばす勇気はアーシャになかった。いや、もうこの先ずっと、ないような気がした。

 足音が離れていって、ぱたんと扉のしまる音がした。

 それきりだった。




「アーシャさん。こっちですよ」


 頼りない月の光が、ぼんやりと林の道を照らし出す。ラーンフォールの屋敷は、閑静な住宅地の西の外れに位置しており、裏手は林になっていた。表の隅々まで整えられた庭とは異なり、林の奥の方はあまり人の手が加えられていない。このまま林を迂回してから、西の大通りに出る手はずになっている。アーシャは慎重に、かつ素早く歩を進めた。

 セシルが前を行き、アーシャを誘導する。その足さばきは、おっとりした普段の彼からは考えられないほど俊敏で、狩人シャスールとしての彼の力が推し量られた。金色の髪が光を映して時折煌めくおかげで、見失うこともない。


 二人は、とりあえず屋敷からの脱出に成功したのだった。

 真夜中、約束通りに再び窓から姿を表したセシルは、珍しく黒いローブを身にまとっていた。目立たないようにと、アーシャにも揃いのローブを手渡した。準備が良い。

 彼は行きましょう、とも、やはり残りますか、とも、言わなかった。ただ、アーシャに手を差し出し、アーシャもその手をとった。

 それが、答えだった。


「気になるんですか」


アーシャが時折後ろを振り返ることに気づいたのだろう。問う声は少し控えめで優しい。


「いいえ」


 出た声は情けないほど弱々しくて、アーシャはぎゅっと唇を噛んだ。

 彼女の背後にあるのはラーンフォールの屋敷だ。彼女がずっと、両親とともに、両親が死んでからは兄とともに守ってきた。

 その屋敷に、兄に、今背を向ける。

 兄に背いたのは初めてで、自分が間違った選択をしたのではないかと怖くなる。本当は今からすぐにでも屋敷へ帰るべきなのではないか。じっとりと嫌な汗が背を伝った。

 アーシャを拒絶した兄は、それでもアーシャの幸福を考えてくれていたのかもしれない。狩人シャスールをやめさせ、普通の娘としての人生を、彼女に与えようとしてくれたのかもしれない。

 優しい人のもとへ嫁ぎ、子供を育てて、家庭を築く。吸血鬼にも魔物にも関わらずに、毎日を慈しむ。その人生を、アーシャに否定する気はない。毎日を平穏にすごすことこそ、もっとも難しく尊い。あるいは、吸血鬼を殺すことよりも、よっぽど。

 それでも、アーシャは、誰かを守る自分の腕が欲しかった。幼いあの日の自分に、何もできずただ震えて祈ることしかできなかった自分に、戻りたくはなかった。

 だから、今は自分のできることを、してみるしかない。


「迷っているのなら…」

「いいえ。もう迷いません。──私は、狩人シャスールですから」


 アーシャは己に言い聞かせるようにきっぱりと告げ、セシルの言葉を遮った。セシルはまだ何か言いたげな様子だったが、結局口をつぐみ、それ以上のことは言わなかった。

 もう、アーシャは振り返らなかった。


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