prologue
嘘だ、とアーシャは叫んでいた。唇は塞がれているから、それは言葉にならず、彼女の体内にとどまった。
ほんの一瞬の油断。物思いにふけりながら歩いていたから、背後の気配に気づくのが遅れたのだった。気づいた時にはもう遅い。体の自由を奪われ、壁に押し付けられていた。その上、こんな屈辱的なことまで。
魔力を含む紅い瞳は、いとも簡単にアーシャの力を奪った。
体がまるで鉛のように重く、そのうえ、唇を塞がれて息が苦しい。いつのまにか口腔に入り込んだ生暖かい感触に翻弄される。体の全ての感覚が、口内に集中しているような錯覚を覚える。躯は一気に火照り、まるで頭の中に靄がかかったようだ。
──駄目だ、やられる──。
生き物としての本能が、うるさく警鐘を鳴らした。男の白い牙が、光を受けてきらりと光る。
男の顔は、街灯の光で逆光になってよく見えない。ただ目映い金の髪と、血の色の瞳が脳裏に刻み付けられる。男の顔が視界から消えると同時に、首筋に鋭い痛みが走った。背筋を悪寒が這い上る。これは、何だというのだろう。
得体のしれない快感が背筋を突き抜けてぞっとする。それでも痛みは止まない。痛みなのか、快楽なのか、わからない。アーシャは声を出すことすらできずに喘いだ。
「アーシャ…!」
誰かが、遠くでアーシャの名を呼んだような気がした。アーシャは必死にその声が誰なのか思い出そうとする。けれど結局、深い闇の淵に引きずり込まれるようにして、アーシャは意識を手放した。