際会
「頭を上げよ」
凜は初めてまともに伊通と顔を合わせた。
噂通りの長い黒髪は女のそれよりも美しく艶やかであったが、その艶よりも瞳の光に惹きつけられる。
淀んだ湖のような宮廷の真ん中で、黒い瞳は何にも埋もれることのない清廉で聡明な輝きを放っていた。
「秀才と聞いていたがまさか私の影が女子とはな。確かに私はまだ子供かもしれないが、そう誤魔化されてくれるものか?」
眉を顰める伊通の顔は我儘を言う子供の顔とは全く違う。
「伊通様、儂は代替りもして随分と経ちましたがまだ朦朧はしとりませんぞ」
「玄馬の目が曇ることなど想像もつかないな」
「ふふふ、曇ってしまえば命がないも同然の身。お仕えする限りは信じてくださって結構。この爺に免じて凜を信用してくだされ」
「お前にそこまで言われれば信じるしかないだろう。それにしても・・・美しい孫娘を男の側になど侍らせてよいのか?」
祖父ほど歳の離れた玄馬と対等に対峙する姿は堂に入っていた。
幼さの消えない顔で似つかわしくない台詞を言いだす伊道は、大人にならざるを得ない子供の境遇を思わせた。
「一重に伊通様の御ためにございます。凜をおいて適任はおりませぬからな。影武者についても然り」
「玄馬がそのように手放しで褒めるのは珍しくないか?」
「あまりに伊通様が心配なさるので、つい、ですな。とまれかくまれ・・・お側に侍り、侍女の真似事などもするとは申せど凜はくノ一、下賤の者にございまする。ゆめゆめお手など出されぬよう。では爺はこれにて失礼つかまつる」
喰えない好々爺の笑みを残して玄馬は消えた。
「あのように釘など差さずとも、私は既に厄介な許婚もいるし手など出さぬ」
ぽつりとむくれたように呟いた言葉には年相応の幼さが混じっているように聞こえた。
だがすぐににこやかな笑みを浮かべて凜に話し掛けてくる。
「苦労は絶えぬと思うが、楠木の名に恥じぬ働きを期待している」
「御意」
しばらくは最近読んだ書物の内容や政情の認識を交換したり、詩歌、管絃など風雅についての話も交わした。
話せば話すほど伊通の聡明さに感銘を受ける。
こんなに聡明な皇子では周りが刺激されても仕方がないのかもしれない。
誰もが夢見てしまうだろう―――この少年が治める美しく豊かな国を。
幸か不幸か、瑞穂国を取り巻く不安定な状況は玉座に遠くて近いこの少年が祀り上げられることを容易に許してしまう。
たった少し生まれが違えさえすれば修羅の道を歩むことはなかっただろう。
少年らしい煌めきを秘することなく陽のもとで生きることができたはずだ。
こんな状況でも生まれた境遇を恨むことなく真っ直ぐに生きることができるほど強い少年なのだから。
皇家に忠誠を誓う楠木家が敢えて反逆側にはついたのはこの少年のせいなのだと悟った。
「ときに・・・凜には恋人はいないのか?」
今までの真面目な話とは路線を変えた俗な話題に凜は伊道の瞳を見直した。
だが照れくさいのか少し視線を逸らされた。
――ああ、こんな隙があるからますます人に好かれるのか
「ございませぬ。ですが近いうちに許婚が決まりますでしょう」
「許婚・・・。好きな男はいないのか? その、添い遂げたい男とか・・・」
「許婚ができることは昔からの決まりごとでございますから、そのようなことは考えたことがございません。伊通様は添いたいお相手がおいでなのですか?」
なぜだかやけに許婚の話に突っ込んでくるので凜はつい聞いてしまった。
「い、いや・・そうではないが・・・」
口籠もってしまったので凜は慌てて謝った。
すると伊通は笑うなよと念を押してきて、凜が一も二もなく頷くが早いか伊通は早口で言い切った。
「憧れてるんだ、比翼連理というのに」
流行の恋物語にも引用されているほど有名な隣国の詩歌の一説。
恋人達が誓い合う永遠の愛の言葉。
「それは・・・まだ見ぬ夫殿とも可能なことでございます。もちろん伊通様にも言えることです。そうなることが一番幸福だと思いますが」
凜が生真面目にそう言うと、伊通は呆れたように溜息を吐いた。
「玄馬の揺るぎない態度の意味が分かった気がする。年頃の娘とはもっと色気のあるものではないのか。せっかく将来有望な権力者の側付きになったのだから自分の魅力を利用して私に取り入るとか・・・もしかしたらそのうちお互い本気になって全てを捨てることになるかもしれないのだぞ」
ぶつぶつと真剣に恋物語のようなことを語るので凜は呆気にとられた表情を隠せなかった。
当代随一と囃される少年がこんなに夢見がちだとは思わず、凜は堪え切れなくなって笑ってしまった。
「わ、笑わないと言ったではないか!」
「申し訳ございません。しかし私は比翼連理に笑ったわけではございません」
「屁理屈だ」
不貞腐れたように言う。
「私ごときに伊通様を籠絡することなどできません。恐れ多くてそのようなことは考えたこともございません」
凜は笑いながら答えた。
「禁忌というのは分かっているが、禁断の蜜にこそ誘惑があるんじゃないのか? それに・・・凜の吸い込まれるような黒い瞳に見つめられれば落ちない男はいないと思う」
相手が子供とはいえ、真顔で言われて凜は顔が熱くなるのを感じた。
この言葉が凜の劣等感を払拭し、くノ一としてどんなにか嬉しい言葉かなど伊通は知る由もないだろう。
「ありがとうございます。くノ一にとっては最高の誉め言葉でございます」
動揺を見せないよう努めてあっさりと答えたのが悪かったのか伊通の不貞腐れた態度は硬化してしまったようだったが、本当に嬉しかったのだ。
文字通り命を賭すほどの忠誠を誓う主との出会いの思い出。