Ⅱ-4 ヴェルデフォル号と海賊たち
前話に改稿及び加筆いたしました。
今後、同性愛表現がやんわりと出てくる可能性があります。後付けで申し訳ありませんがご了承ください。
「お前女だろ」
医務室に入った途端、船医フェンリルは言い放った。
恥ずかしいほどきっぱりと凜は否定し、さらに続けた。
「あまり女女と言わないで頂きたい。私に対する侮辱です」
「おいおいおい、そこまで言っちゃうか? 可愛い女の子がよぉ」
「ですからっ!」
―――呼吸が・・乱れてる・・・さっきから、感情を抑えられない・・・
とっくに限界点を越していたのだろう。
自分を誤魔化して必死でかけていた暗示が解ける。
「おっと」
「ぐっ、うぅっ、んぐっ」
フェンリルが余裕の姿勢で差し出した受け皿に吐瀉物を吐きだした。
「うげぇっ、げふぁっっ、はぁっ、はぁうっ、げえぇぇぇっ」
「おうおう、我慢しねえで全部出しちまいな。お嬢ちゃん、完全に船酔いだ」
フェンリルは崩れ落ちる凜に合わせて受け皿を床に置き、背をさすってやる。
固形物がなくなり胃液しか出なくなっても吐き続け、襲ってきた耐えがたい眩暈と頭痛にぐったりと床に倒れ込んだ。
「俺からすれば男と女の違いなんて骨格からして一目瞭然だ。第一、簡単に確認できる」
そういって右手で凜の太股をまさぐったのだ。
不快な感覚に抵抗どころか顔を引き攣らせる元気もなかった。
また吐瀉物が出てきそうな感覚に冷や汗が流れる。
「正直に言わないと、食べちまうぜ?」
凜は返事の代わりにうめき声をあげた。
声を出すのも億劫だったが生来の生真面目さは凜を許さなかった。
掠れ声を絞り出す。
「仰る通り・・・私は女です。嘘を・・・ついて、申し訳ございません」
「ったく、不利な状況で何を粋がってやがったんだよ。阿呆の極みってもんだ」
よっこらせと立ち上がりながらフェンリルは凜に手を差し伸べたが、凜はその手を無視した。
というよりも起き上がる気にもならないのだ。
目の前がぐらんぐらんと揺れに揺れている。
フェンリルは軽々と凜を抱えてベッドの上に放り投げた。
「とりあえずお寝んねの時間だ」
差し出された液体をなんの抵抗もできずに凜はただ飲み干した。
「よしよし良い子だ、よく飲んだな」
「そうやって・・子供・・・扱・・い、しないで・・・く・・・・・・・」
言葉を言い終える前に、重圧を伴って圧し掛かる眠気に屈していた。
***
頭は重いが目は覚めた。
吐瀉物と生理的な涙とでどろどろだった顔は綺麗に拭われていた。
「本当に薬の効きが悪りいなあ。体質かぁ? 俺はフェンリル。この船の船医だ。もう嘘つくんじゃねえぞ、命に関わるからな」
「貴方・・・お医者様なのですか?」
凜の常識でいえば髪に白いものが混じるかさらには抜け落ちるくらいに齢と経験を重ねてやっと一人前の医者と名乗るものであった。
三十を越えてはいるだろうが四十にも満たない若さで、しかもとても不潔な印象を与えるこの男が医者には到底見えなかった。
しかしフェンリルは凜の訝しげな表情をまったく意に介さずに話を進める。
「そうその、お医者様様だ。他の誰に逆らっても俺には逆らうな。何もかも吐いてもらうからな、まずは年から」
「うぇええっ、げほっ」
「これ、置いとけ」
苦笑しながら見事に吐瀉物を受けとめたばかりの皿を枕元に置かれて凜は赤面した。
身を起こそうにも異様に身体が重く感じて凜は仰向けのまま視線だけを合わせて答えるしかなかった。
「・・・年は17になりました」
メモを取ろうとしていたフェンリルの手が空中で止まった。
「何だって?」
意地だけでなく耳もお悪いのかと軽く嫌味を言いたくなってしまった。
思考の大部分が負の気に覆われるほど具合が悪い。
うんざりした気持ちを隠せないまま目だけ動かすと、フェンリルは真面目に驚いているようだった。
「なんてこった。お前エルフか?」
あまり綺麗ではなさそうな栗毛頭をぐしゃぐしゃとかきまぜるフェンリルに凜は訝しく小首を傾げる。
「えるふ・・?」
「本当に海の妖魔か何かじゃないんだな? 参った・・。せめて13とか14とかじゃねえのか? 本当に?」
「・・・あんまりです」
凜は唖然とした。
確かに二歳サバをよんではいるが、それくらいなら辛うじて不自然ではないことは瑞穂国で証明されていたはずだ。
だが、どう考えたって13歳はあまりに幼すぎる。
しかし先刻、15と言ったときだって否定されたのだった。
彼らには自分がそんなに幼く見えるのだろうか。
「驚くのはこっちだ。パッと見は11、12にしか見えねえよ。しかし・・・さっきは悪かったな。ガキだと確信してたからつい遊びすぎちまった。俺がお前に手を出すことは絶対ねえから安心しろ。聖母にも誓える」
一瞬なんのことかと思ったが、どうも太股をまさぐったことを言っているようだ。
相手が海賊であることを知った以上、凜はこれ以上ないほど慎重に行動する必要があるはずだった。
しかし、穏やかで真摯な瞳には嘘偽りを見て取れなかった。
―――ちょっと玲瓏様を思い出すな・・
信義に厚く、理知的で、鷹揚な性格は誰もが将来の長と目する一族の俊英。
自分がそんな人の妻になるなど恐縮してしまって想像もつかなかった。
ふっと思考が飛んでいたことに気付いて我に返る。
「なんで海にいた」
フェンリルは頭をぐしゃぐしゃと掻きながら先を促した。
「・・・・気が付いたら、いたのです」
なんとか自分の手札を明かさずに整合のとれた話を作らなければならないと思ったが、重い頭はうまく働かない上に、ちらちらと玲瓏と重なることがさらに凜の心を緩ませてしまったのかもしれない。
「もっと要領を得るように話せよ」
「あまり、覚えていなくて・・・、ただ、海にいたわけではなかったのです」
「海にいなかったのに海にいたってのは、浚われたのか」
「浚われた・・・」
それは考えていなかった。
だが殺される理由なら心当たりがあっても浚われる理由は全く思いつかなかった。
「分かりません。戦があったのです。私は若君をお守りしていたのですが・・・」
「おいおい・・・若君ってのは男だろ? お前の国の男は女に守られるのか?」
「私の一族はそういう使命の元に生まれているのです。私は小姓兼影武者という身で常に若君の傍に侍っておりました」
「お前が男の影武者か?」
「私は若君と背格好が似ておりましたし、この黒髪が目印でしたので」
凜の黒髪は見事なものだ。
今は潮のせいで褪せているが、伊通の象徴とも言える濡れ羽色の髪を持つ者はそうそういない。
「その若君ってのは?」
「さる貴族の御子息です」
「わざと言ってんだろ。さすがに度胸据わってるな。一体どこの国の出だ? ここらへんにはお前みたいな人間いねえよ」
「・・・・瑞穂国というのですが、ご存じですか?」
フェンリルはペンでこつこつと頭を小突いた。
「みずほくに、ね。聞いたことねえな」
凜は酷くがっかりした自分に気付いた。
希望的願望など持っていなかったはずなのに。
「お前、その形でものの見事にしょげかえるんじゃねえよ。苛めてるみてえな気持ちになるじゃねえか」
感情がダダ漏れになっていることに気付き、凜は慌てて顔を引き締めた。
「能面見てえなツラになってるぜ」
表情を上手く作れず八つ当たりな気持ちになる。
「そう怒るな。子供は専門じゃねえんだ」
「子供子供って・・・」
「ああ・・・、17の立派なレイディだったか。ったく」
「れいでぃ?」
「淑女。で?」
フェンリルは凜の見た目と実年齢のギャップにやりにくさを感じながら、気になるところに話を飛ばすことにした。
面倒なことは一々掘り下げず後でまとめて解決する主義だ。
「護衛をしてたってことは武器が扱えるな? 何ができる?」
凜は諜報、謀略、後方攪乱、暗殺、その他なんでもできるように仕込まれている。
具体的な技で言えば、忍術の他に体術、基本武術、簡易医術といったところだ。
嗚呼、こんなことを列挙するなんてとんでもない守秘義務違反だ。
「武器は短い刃物を扱うのが一番得意ですが・・・そうですね、比較できるものがないのでなんとも言えません」
「だがお偉いさんの息子を任されるくらいには腕に覚えがあるってわけだ」
「そうは言っても一番側にいるのが私であるだけで、後方守護は大勢いましたが」
「なるほどな、そりゃそうか。ってこたあ、実力は本当によく分からねえな」
「ですが、味方一人なく、逃げ場もないこの場で力を振るうことがいかに無謀であるかくらいは判断がつきます」
「賢明だ。女ってのはヒステリーを起こした揚句、こっちの予想を覆すようなことを平気でやりやがるからな。そういう面倒がなくて良い」
おちょくられていると気付きながらも、ここでムキになれば相手の思うツボにはまるだけだと凜はゆっくりとした呼吸で気を落ちつける。
「さっき人を探してるって言ってたのはその若様とやらのことか?」
正念場だと思った。
正直に話すかどうか、一番迷う点だ。
凜の身の上を正直に話したところでかえって疑われるだけかもしれない。
あの船長は婆様の言葉を目の前で聞いていたからある程度、凜のことを信じてくれたのだろう。
凜がフェンリルの立場だったとしたら絶対に信じず、何を企んでいるのか怪しむ。
だがフェンリルだったらどうだろう。
判断力が鈍っていることだけが原因とは思わないが予想がつかない。
―――玲瓏様だったら?
フェンリルは玲瓏ではないのにどんどん重なってしまう。
半分は信じて、泳がせておき、少しでも疑わしい点が出れば斬るとか。
―――こんなぐちゃぐちゃな頭で何を考えても嘘など考えられない。覚悟を決めるしかない・・
凜は異様としか思えない自分の身に起きた出来事について話しだした。