Ⅱ-2 ヴェルデフォル号と海賊たち
頭がぼおっとしてきて凜は思わず正座のまま突っ伏して、床に顔を擦り付けて冷たい温度を堪能してしまった。
「気持ちいい・・・・」
突っ伏したときに衿元からこぼれおちた鈴が揺れる。
涼やかで懐かしい音にとろとろと眠気を誘われた時、戸についた取っ手が音を立てた。
また気配を見逃したと焦りながら戸が開かれる前に飛び起きたが、片膝をついたまま固まる。
白髪の男だった。
髪は白いが老人ではない。
一見、細身に見える身体は、鋭利な刃物に似ていると思った。
ささやかな動作から垣間見ることのできるしなやかな動きから、服の下に強靭な肉体を隠し持っていると分かる。
―――怖い
しのびとしての経験からかあるいはその本能が感じたのかは分からないが、身体が竦んで全身が畏縮した。
最強の忍と謳われる祖父や父や玲瓏様に似た気配。
間合いに踏み込まれてしまえばいつでも身体を切り刻まれてしまうような、緊張感を強いる気配。
男がこちらに向かって来た瞬間、凜は総毛立った。
一歩踏み出したことによって細い光が男の顔を照らしだす。
極度の緊張で、いつもより早い自分の鼓動が耳を打ち、筋肉の硬直によって自然に呼吸をすることもままならない。
それなのに男の持つ瞳に目を奪われていた。
此方の海の鮮やかな青。
空の青とは違う、澄みきった透明。
我を忘れて男を見つめていると男は首を傾げた。
「なにやってるの?」
間延びしたような、凜の緊張などまったく知らぬといったようなのんびりした問いに、ついに凜の頭は真っ白になった。
―――この男、一体何者?
訳が分からなかった。
人を斬るような気配を持っているにも拘わらず、なぜこんなにも悠長で隙のある動きを見せるのか。
油断させて殺す気なのだろうか?
だがそもそもこの船の長に助けられているのだから殺されることはない、と思う。
ぐらつく思考を必死に動かすが適切な答えが見つからない。
「何か落としたんなら俺も一緒に探すけど」
凜の殺伐とした考えとはまるでかけ離れた言葉に感覚が追いつかず、何かの精神攻撃なのではないかと考えてしまった。
「え?」
「違うの? そこあんまり綺麗じゃないんだけどね」
軽く顔を顰められて慌てて立ち上がると確かに膝から下は白く汚れていた。
が、その汚れをはたき落とす前にふらついて頽れそうになる。
前のめりになった凛は二の腕を強く引っぱられて、反射的に身を引こうとしたがかなわなかった。
「あー、ごめんね。そうか、脱水症状おこしてたもんな。だったら遠慮しないでその椅子に座っちゃいな。律儀な子だね」
そう言いながら男は軽々と凜を持ち上げ、「んー、でもディーツが来るならこっちがいいか」と呟いて凜を机上に降ろした。
いきなり他人の体温を近くに感じてしかも簡単に身体を捕られて凜の思考は混乱を極めた。
長の机の上に腰掛けるという無作法にも内心慌てふためきながら、やはり身体はついてゆかず、そのままぐったりと居ついてしまった。
男は側の壁に凭れて凜を見ているので、ちっとも心身を落ちつけることができない。
圧倒的強者の前に出れば自分のような未熟者に為せることなどないのだと改めてしらしめられたような気がした。
名乗るべきかと思ったが、この男と二人きりの状態で迂闊なことをするべきではないような気がして、喉が強張った。
結局、何もできず何も言えないまま、気まずい沈黙を余儀なくされた。
「それ、ここらじゃ見ないものだねえ」
男の目線から、大切な鈴を襟元から外に垂らしたままだったことに気付き、とっさに隠すように手で押さえた。
「はは、別に盗ったりしないよ。お守りかなんかでしょ? 実際そいつのおかげで君は助かった」
何のことかと凛は男を見上げた。
「そいつの音色があまりに綺麗なもんだからうちの奴らが人魚の歌声だって言い出した。だから君を見つけたってワケ」
伊通が起こした奇跡だと思った。
伊通が凜を生かしてくれたのだと。
同時に希望と気力が湧きあがる。
その伊通の元に二度と帰れないはずがないと。
おそらくは果てしなく遠い地に想いを馳せながら凜はそっと言葉に出した。
「主から賜ったものなのです」
男は口の端を持ち上げ、目を細めた。
笑ったように見えたが、そうでないようにも見えた。
この男に深く関わることに本能的な畏怖を感じ、他方、伊通のお陰で少し落ち着いたので凜は話を変えた。
「あの・・・この船は何を商っているのでしょう?」
「うん?」
「先ほど争いがあったのは海賊が来たからだと思ったのですが損害はなかったのですか? 激しい武力戦に対抗できるほど強い戦力を持っていることに少し驚きました。こちらの商船はどの船もそのように戦力を備えているものなのでしょうか?」
男はくっくっくっと堪えるように笑った。
「さっきの戦いが海賊のせいだってのは確かよ。で、商船の中にも海賊に対抗できる船もあるにはある。だけどこの船は商船じゃない」
「・・・漁船、ではありませんよね? 警備船、でしょうか?」
「ううん、それもはずれ」
今度ははっきりと笑顔だと分かるやたらと爽やかな笑みを浮かべて男は答える。
船のことをあまり知らない凜は首をひねった。
「降参?」
実は嫌な考えがよぎっているのだが、あまりに失礼にあたるだろうから言いたくなかった。
派手だが屈強な船長、目の前の得体の知れない強さを秘める男、甲板を走り回っていた男たちの様子はそう、まるで・・・
「正解は海賊。海賊なら、海賊相手に勝ってもおかしくないでしょ?」
凜は再び海を漂おうかと本気で考えた。