Ⅲ-7 最初の関門
「何言ってんの?」
ヴィントは頭を抱えた。
ここで泳げないなどと突拍子もないことを言い出す意味が全く分からなかった。
――戦って生き残る自信がないからか?
もちろん着いてきたからといって信用するわけではないのだが、ここで一緒に着いてこないならば凜を信用する余地はないし、船から叩きだそうとすら考えている。
――でもこいつは自分の状況くらい分かってると思ってたんだがな
言っている凜にだってヴィントの困惑が分からなくはなかった。
そもそも自分でも自分の身に起こったことが全く分からないのだ。
水が怖いわけではないが泳ぐ必要がなかったので凜は泳いだことがない。
それにもかかわらず二回も海に落ちて二回とも助かっている。
考えても分からないから水とはそういうものだと思っていたが、意図的に泳いで目的の場所に進むとなると偶然や奇跡には頼れないだろう。
だからと言ってこの作戦を忌避しようとすればディーツの不興は免れない。
凜は戦法を頭の中に描く。
未知数の男と共闘することを思い描くのは非常に難しい。
強い男は何人も知っているがどれもこれもこの男の強さには当てはまらないような気がしたが、知らず玲瓏を見立てに使っていた。
この男に背を預け、数多の敵を掻い潜り、王手をかけるその光景がぼんやりと思い浮かんだ。
「陽動戦にしましょう。私は正面から乗り込みますから副船長殿は水中から乗り込んでください」
「なにそれ、本気? じゃあさっきの馬鹿げた告白もホントなの?」
「相手もこの船に乗り込んでくるつもりでしょう。先ほどから距離が縮まっています。自陣に踏み込ませるのは良い傾向ではありません」
「・・・一人で突っ込んでって撹乱させられるほどのことができるって? 死ぬよ」
ヴィントは吐き捨てるように言った。
自信の力を過信する者も自分の命を粗末に扱う者も好きではない。
力に対して鋭い感性を持ち、分を弁えた判断もできると思っていたのに、覆された気がしてひどく残念だった。
「死ぬ前に敵将の首を取ってくださればよいことです」
尋常でないことを生真面目に言い放った凜の瞳を見て、ヴィントは悟った。
――ふうん、こいつ。人を斬ったことあるわけね。戦いにも積極的・・・護衛ってのはヌルい仕事じゃなかったのか
ますます簡単に信用するわけにはいかなくなったと思いながらも、面白いと思う気持ちも否めない。
どこまでやってくれるのか見てみたいという好奇心と高揚感がぞくりと身を走る。
少し懐かしい感覚を覚えながらも、これではディーツと変わらないと気付いた。
この子供はどうにも自分達を振り回す。
「別に首まで取る必要はないけどね」
***
海に飛び込んだヴィントを見送り、凜はそのまま物陰から敵船を窺う。
下手すれば接触しようというところまで船は近付いてきている。
接近戦は得意分野だ。
だが銃という得体の知れない武器は少々厄介だ。
腕を振る、弓を引く、そういった大きな動作を必要とするのが投擲武器の特徴にも関らず、攻撃に要する動作が指の動き一つだなどと冗談のような話だ。
さらに言えばその速さも尋常ではない。
とはいうものの手首の動きなどによって柔軟に操れるクナイや手裏剣と違って、視線と筒の向きに注意しておけば方向を見定めやすくはある。
――相手の動作の速さに負けなければ回避できるはず・・
凜はひょうたん型の硝子の中でサラサラと微かな音を立てて流れ落ちる砂を見た。
砂時計の砂が全て落ちたら突撃だ。
鉤縄を投げやすく構えようするのと同時くらいに、敵船から鉤縄が投げ込まれて船と船に一本の道ができた。
砂は落ち切っていなかったが凜は迷わず走った。
縄の途中には無様にぶら下がりながらもこちらに近づいて来る男達がいた。
細い縄の上を軽々と駆け抜ける凜を下から驚愕の目で見つめている。
男達の縄にぶら下がる手を踏みつけて海に落とす。
敵船で凜を見た者は一様に驚きと恐怖の表情を浮かべたが、そのうち我に返って迎撃の姿勢を取ろうとし始めたがすでに遅い。
凜は彼らの利き手に向かって、厨房から浚ってきたナイフを的確に投げつけていく。
空中遊走を終えて音もなく船に降り立つ頃には凜に気付いた者はみな武器を取り落としていた。
ちらりと意識を向けると味方の船に入りこんでいる者もいれば凜の後を追うように敵船に向かってくる者もいた。
だが今敵船には味方は一人もいない。
回りこんだヴィントがどこにいるかは分からない。
考え込む暇はなく、二丁の包丁を両手に構えて敵が走り回る甲板に向かって駆けだした。
凜が斬りつけると誰もが思わず怯みたくなる程の血飛沫があがる
一方の凜は返り血をほとんど浴びていない。
敢えて人の多い場所を駆け抜けるものだから銃で狙うこともできない。
敵船の海賊たちは戦慄した。
だが所詮は多勢に無勢で、無防備な部分が出てきてしまう。
凜が一人の海賊を斬り付けた瞬間、後ろに殺気を感じたが振り返る間もなかった。
だが人の肉を斬る鈍い音は凜の背中からでなく、ひどく他人事に聞こえた。
凜は振り返らなかった。
背後から放たれる険呑な気配は知ったものだ。
「よくやるじゃないの」
「一時的に撹乱できる程度です」
「上出来でしょ」
その5分後には敵船に白い旗が掲げられた。
***
「お前いったい何者?」
凜とヴィントは戦利品を積み込んだ小舟の一艘に乗り込んだ。
「何者・・と言われましても」
「あれだけ人斬ってなんともない顔なんてただの護衛だったらありえないでしょ。しかも見事に一人も殺してない。なんなの、アレは」
「血飛沫があがるように斬っただけです。自分の血を見ると戦闘意欲は著しく減退しますから何かと重宝する戦法です」
武器の摩耗も少なくて済むから助かるんですなどと続けられるものだからヴィントは呆れた。
「それこそただの護衛って言うにはスキル高すぎ」
「・・・確かに、護衛というのは少し語弊のある言い方かもしれません。あの方のいる所自体が危険そのもので、あの方のために人を斬ることが私の役目でしたから」
言葉の内容は尋常でないことなのに、漆黒の瞳は切なく懐かしげに海の向こうを見つめていた。
――あの方、ね。何がなんでも帰り着きたいと思う相手か。・・・ま、子供特有の熱情を信じてあげましょうかね