Ⅲ-6 最初の関門
軽く身体を動かしながら目を閉じて己の手足の感覚に意識を這わせる。
此方に来てからずっと重だるかった身体にようやく軽さが戻ってきた。
左右に動かそうとも上下に動かそうとも自由自在だし、どんなに寝ても抜け出せなかった眠気も、五臓六腑の鈍さもごそりと剥がれ落ちたようだ。
おかげで五感は冴え渡り、鎧を着けずに戦場の真ん中に佇んでいるような心許なさはなくなった。
「おい、寝てんなよ!」
「指落としても知らねえぞ!!」
周りからどやされて凜はゆっくりと目を開けた。
手元を見たが、じゃがいもは不必要な皮の部分だけが剥かれていて文句のつけようもない状態だと思う。
手首を軽く動かして皮を剥き終えたじゃがいもをバケツに投げ込む。
じゃがいもの山は崩れることなく、パズルのピースが嵌まるように静かに収まる。
喧騒の中でその奇怪な事象に気付く者は誰ひとりとしていなかった。
皮を剥くべき対象が無くなってしまい手持無沙汰になった凜は手元の刃物を器用に弄ぶ。
刃の部分は確実に手に触れているはずなのに、薄皮一枚傷ついた様子はない。
――まともな得物が欲しいのにな
此方の武器はやはり凜が愛用していた物とは違うし、少なくとも目の前にある刃物は武器と言うには余りに繊細すぎる。
どんな武器だろうと使いこなせる自信はあったが、実際に使う前に慣れておきたかった。
ここはいつ何が起こってもおかしくない海賊船なのだ。
この間のようにいつ何時戦闘が始まるかなど予想もつかない。
轟音を鳴り響かせる物の正体も知っておきたかった。
だが事態は凜を待たずに襲いかかってきた。
***
此方に来てから三度目になる轟音と船の揺れに凜は身軽に反応した。
船が揺れても凜の足取りはもうぶれない。
皆が厨房を飛び出していくのを確認してから厨房にある小刀を持てるだけ掴み取って甲板に走った。
同じくらいの大きさの船がヴェルデフォル号の右舷に構えている。
船に乗る面子をよく観察するとヴォルデフォル号の乗組員の様相とあまり変わらないことから恐らくあちらも海賊なのだろう。
既に焦げくさい臭いが船の上に漂っていて戦闘は既に始まっているようだが、乗りこまれた形跡はない。
何度か巻き込まれたにも関わらず、此方の戦いの流儀を凜は知らない。
よく見極めようと周囲に目をこらす。
目についた武器は刃物だったが、それ以外に気になるものがある。
――あの細い筒はいったい・・・?
敵味方問わず多くの者が右手に構えて振りまわしている黒い筒。
船の向こうから此方に筒を向けて構えている。
――・・飛び道具?
眼を眇めてよく見続けると、その男は筒を構えている人差し指を動かしたようだった。
「伏せろ!!」
声に従い身を伏せて船べりに隠れる。
再び身を上げてそっと男を見ると筒の先から噴煙が上がっていた。
横で味方側の男が同じ物を構えて人差し指を動かすと、轟音と共に同じように噴煙を上がる。
凜の動体視力をもってしてもはっきりと捉える事が困難な早さで何かが飛び出していったのは分かった。
――何が飛び出したのだろう。投擲を補助するための道具であることは確かのようだけど。
指弾などよりもよっぽど凶悪な速度で何かが飛んで行った。
人に当たれば傷つけるどころか貫通していてもおかしくないだろう。
凜はぶるりと身を震わせた。
見たことのない物騒な武器に恐れを抱いたわけではない。
「こんな船べりでぼーっとしてんじゃないよ。撃たれたらどうすんの」
背後から声をかけられて凜は振り返った。
雑然と人が入り乱れる中に、凄まじく険呑でしかし羨望したくなるほど清冽な気を放つ者がそこにいた。
「ちょっとこっちにおいで」
ヴィントは指をくいと動かして凜を呼びつけた。
凜は迷いながらもそれに従って物影まで着いていく。
「なんでもやってくれるって話なんでしょ?」
疑問形ではあるが、これはただの確認だ。
凜は素直に頷いた。
「とはいえ、何をしてもらおうにもまだお前さんの能力も把握してないしねえ。銃が使えないんじゃ接近戦にしか使えないし、護衛だったんなら攻める戦いを知ってるとも思えないしな」
凜は、見下ろされ、遠慮なく吐きだされる言葉を甘んじて受け止める。
自ら手の内を明かす必要はないからだ。
「ああ、もういいや、めんどうくさい。援護はできる?」
「はい」
忍の本領の一つだ。
得意だといってもいい。
だが、次の言葉には驚いた。
「そ。じゃ、これから二人で突入するから」
「二人で、ですか?」
「何? びびった?」
だってこの人は副船長だ。
先頭を切って敵の中に飛び込なんておかしな話だろう。
先陣を切らされるなら凜ひとりだと思っていた。
「真正面からぶつかりに行くとは思わなかったので」
「別に真正面からじゃないよ。裏側から泳いでく」
「それは・・」
凜は血の気が引いていくのを感じた。
海上にいる限り逃れられないことは分かっていたはずなのだが、奇跡がそれを隠していた。
だがここで隠しているわけにはいかない。
「それは・・・できません」
「なに? 最初からリタイア? そんなこと聞いたらディーツは興醒めするよ。お払い箱決定」
凜は拳を握りしめて口を開いた。
「・・・んです」
「は?」
「泳げないんです」
周囲の喧騒にもかかわらず、間抜けな無音が凜とヴィントを包み込んだ。