Ⅲ-4 最初の関門
「なんでもやるっつったな」
ディーツのいやらしい笑みを見ながら、凜はいつ自分が女であることをばらすべきかと窺った。
男達の慰み者にされるくらい命に代えることはできないとは頭では思うが身が震える。
本来ならば3年前にしなければならなかったことを、今必要に迫られただけだと必死で言い聞かせても、苦い記憶が身体を蝕む。
口の中が干上がって唾をうまく飲み込めない。
次の言葉がうまく出てくるかも分からなかった。
「んじゃ、てめー、今日から幹部の雑用なー!」
「!?」
言葉が干上がっていてよかったと思った。
口が潤っていたらきっと素っ頓狂な声をあげていたに違いない。
「朝も夜もなく扱き使うから覚悟しとけよ」
いやらしいと思った笑みが何故かとても清々しい笑みに見えた。
つまりこの人は凜に居場所をくれると言うのだ。
監視の意味もあるだろうとはいえ、得体も知れぬ迷い人に対する待遇としては破格だ。
己の守るべき城を持つ者はもっと非情であるべきだと凜は思う。
だが驚くような判断を下したこの男が、船の中でも年若い部類に入るだろうにもかかわらず船長をやっている理由を垣間見た気がした。
決めた男の行動は早く、凜は船長室の隣に部屋を与えられた。
そこは部屋というよりも物置のような場所で、窓もなく天井も低く、ハンモックを吊るせばそれで一杯になってしまうような狭い場所だったが、入口の他に船長室に通じる扉も付いており、動線をより多く確保できる点で凜を安心させた。
「やっと眠れるぜー」
騒がしい夜はようやく落ち着いた。
***
朝、目を覚してすぐに医務室に向かうと目があった途端にフェンリルに苦笑された。
「なんとか及第ってところだな」
「ええ。まさかこんな展開は予想していませんでしたが」
「なんだかんだいってキャプテンが興味持ってる間は誰も手は出さねえよ。で、お前腹は大丈夫なのか」
凜はなんと答えようか一瞬迷ったが、嘘をつくなという言葉の意味を考えた。
このくらいのことなら白状しても問題はないのだが、少し躊躇している間にもうひと押しされてしまった。
「思いっきり腹を蹴られてただろうが」
「一応受け身はとっていますし、急所はかわしましたから」
蹴り飛ばしたディーツ自身は薄々感付かれているかもしれないが、音を立てて甲板に叩きつけられたのは凜の演技だ。
攻撃を受けた場合にまともに受け止めず力を分散させるのも忍の技だ。
傷ついていると見せかけて敵の目を欺くのは基本中の基本ともいえる。
ディーツの蹴りの威力は容赦なく重かったからアザは残ったが内臓まで届くような衝撃は避けている。
驚くフェンリルの視線をまともに見返して凜はそれ以上の追及を避けるように本題を口にした。
***
「おはようございます。昨晩は申し訳ございませんでした」
朝食の席で皆が凜のことを見ていた。
目の前の少年も、ただでさえ大きな瞳が落ちるのではないかというほど目を見開いている。
「お食事中に恐縮ですが、謝罪ついでに怪我の様子を見せていただいてもよろしいでしょうか」
凜は有無をいわさずにラルフの腕を取り、手早く包帯を解いていく。
赤く裂けた腕を見て軽く顔を顰めると懐から小さな陶器の器を取り出して中の軟膏を傷に塗りこめた。
「な、なんだよ、これ」
「我が里の秘伝の傷薬です。私の武器で傷つけられたものには特によく効きます。早く塗るにこしたことはないですから」
華奢な身体に似合わない力にラルフは強張る腕を引っ込めることができなかった。
新しい包帯を手際よく巻きつけられてあっという間に腕は解放された。
「お食事中に失礼致しました」
すぐに席を離れようとする凜をラルフは呼びとめていた。
「おい、お前!」
「はい?」
「どういうつもりだよ!」
叫んでからラルフは周囲が皆自分達を見ていることに気付き、凜の腕を引っ張って食堂の外に出た。
「俺達はお前のことリンチしようとしてたんだぜ! 華奢なでお綺麗な顔してるからな、上手くいけばお前のことを犯そうともしてた。そんな俺の怪我の手当てなんざしてなんのつもりだよ。俺に媚びたってなんもなんねーぞ!」
凜は思案した。
謝罪など無視をしてしまえば済むところをわざわざ場所まで移動して少年が凜を問い詰める理由はなんだろうか。
「悪いと思っているからそんなことを聞くのでしょう」
ラルフは絶句した。
「ち…違っ」
「得体のしれない者が突然他者の縄張りに入り込めば、何をされることになったとしても不思議なことではありません。心理として納得できないことではありませんから」
「馬鹿にしてんのかよ!」
「確執を残しても私に利点はありません。いくら貴方方の長に保護されたからと言ってそれにのうのうと甘えることはできませんから」
凜ははっきりと本心を答えた。
体躯は大きく顔つきも大人びていても、おそらく凜よりも歳も経験も少ないまっすぐな少年だ。
真正面からぶつかるのが一番正しい答えだと思った。
案の定、ラルフは眉間にしわを寄せつつも、凜の目をまっすぐ見つめた。
「・・・・プライド傷つかねえの?」
プライドという言葉の意味はわからないが、意味合いとしては自尊心とでもいうことだろうか。
「生きて帰らなければなりませんから」
「そりゃ死んだらおしまいだけどよ」
ラルフは鼻に皺をよせて息を吐いた。
「お前さ、歳、いくつ?」
「・・・15になります」
「はー!? マジで言ってんのかよ!! 同い年? 信じらんねー、こんなチビと・・・・」
この手の反応にはだんだんと慣れてきたが心外なことには変わりない。
確かに凜は此方では体格も全く敵わないし彼らのほうが良く言えば大人びた、俗な言い方をすれば老け顔なのは分かってきたのだが、だからといって子供扱いされることに甘んじるのとは違う。
おかげで女であることを隠しやすくはあるので心境は複雑だ。
隣でブツブツと呟いていたラルフはいきなり顔を上げた。
「・・・お前さ、メシ食った?」
「い、え。まだです」
「来いよ。早く行かねえとなくなるぜ。下手すりゃ俺が置いてきたメシももうないかも」
目線を合わせず早口で紡がれる言葉を聞いて凜は一瞬呆気にとられ、次の瞬間には噴き出してしまった。
――この少年はやはり素直すぎる!
だが子供相手であるという気分が凜の中に張りつめた気持ちを緩めさせたのかもしれない。
御しやすそうだと思って近付いた相手だったが思った以上に当たりだったようだ、と心の中で嘯きながらも、凜は此方に来てから自分が初めて笑ったことに気付いていなかった。
「何笑ってんだよ!」
「ありがとうございます」
「別に」
ラルフは凜を睨みつけてから慌てて顔を逸らした。
――男のくせに綺麗すぎる顔しやがって、やっぱ襲われても文句言えねーよっ!