Ⅲ-3 最初の関門
「大分回復したみたいだからな、大部屋に移してもいんじゃねえの」
医者は目配せをしながら船長に言い、船長もにやりとしながらその言葉を受け取った。
ヴィントは何も言わなかったが、数日のうちにひと騒動起きるだろうと確信してげんなりした。
***
「ったく、見てるだけで暑苦しいな。もう少しくらい薄着だっていいだろうよ」
「いいえ! これで限界です。これ以上肌を見せることなど国ではありえませんでした」
凜は故郷の服を脱いだ代わりにこちらの服を着ていたが、船に乗る多くの海賊たちの軽装とはうらはらに、肌着やシャツを着こみ、手甲まで嵌めて、肌が見えている部分は首から上と指だけだ。
女の体であることを隠すためとはいえ、瑞穂国よりも圧倒的に温暖な此方ではかなり厚着だ。
だが、元々秘密が多い忍の体、武器や荷物を隠していたため、厚着でいることが多かった。
暑さよりも、武器を隠し持つための余裕がなさすぎるのが此方の服の難点だと凜は少し不服なくらいだ。
もっとも隠し持つ武器自体がないのではあるが。
「その格好ならなんとかバレねえだろうが・・・暑さでぶっ倒れても知らんからな」
「そのような不甲斐ないことにはなりません」
「髪も切らねえし」
きっちりと洋服を着こんだ凜の姿はまるで貴族か裕福な商家の出でもあるかのようだ。
腰に布を巻いたり着こんでいる服がみすぼらしいため、言われてみれば海賊に見えないこともない・・・という風体なのだ。
フェンリルが文句をつけた長い髪はこれまた綺麗に三つ編みにされて背中で揺れている。
女のように見えるから切った方がいいというフェンリルの忠告に対して、凜は頑として譲らなかった。
切れば瑞穂国に帰った時に伊通の影武者として働くことができなくなる。
凜は深呼吸をひとつすると、緊張して硬くなった表情を崩してうっすらと笑ってみせた。
「先生、準備はできました」
フェンリルは狐に抓まれたような気になった。
不思議なことに、そこここから感じられた少女らしさはさっぱり消え去っていた。
呼吸ひとつで全て隠してしまったかのようだ。
「大して助けてやれねえが上手くやれよ」
「ありがとうございます」
すらりとまっすぐ伸びた凜の背中をフェンリルは愉快げに見送った。
***
「今日からこの部屋でお世話になります。楠木凜と申します。至らぬことがあれば是非ご指導お願い致します」
開け放った扉の内側は薄暗く、むっとするような饐えた臭いがしたが、男ばかりが集まる場所のにおいは此方も其方も大して変わらないものだと凜の中にひっそりと懐かしい気持ちが湧きあがった。
男達は奇異なものを見るような目で凜を見た。
凜は覚悟していたことで、仕方のないことだと諦めている。
凛からすれば彼らはとても奇異な姿形をしているのだから。
顎鬚をたくわえた者が少なくなく、そうでなければ無精髭がびっしり生えていて、凜の目には汚らしく見えて仕方ない。
それにあまりに体格の違う人間、それも男を相手に無事には済まないかもしれないという怖れからくる緊張を押し込めた。
何はともあれ、船に乗るからには仕事をしないといけないのだと改めて声をあげる。
「私にできることがございましたら何なりとお申し付けください」
折り目正しく慇懃な言葉遣いや態度も彼らの中においてはとても浮いていた。
「お貴族様のお坊ちゃんが遊びに来るようなとこじゃねぇぜ、ここはよぉ」
下卑た笑い声をあげる彼らをきっと睨み返して、虚勢に見えないよう、なるべく余裕のある風に見えるよう、凜は口を開く。
「私はそのような高貴な身分の者ではありません。むしろ世間からは唾棄され白い目で見られるような卑しい存在です」
貴方がたとさして変わらぬ、という自嘲は心の中で呟いた。
「なんでもすると申し上げました。その言葉に偽りはございません」
凜は清々しい笑顔を無理矢理浮かべて愛想よく部屋を見渡した。
十数人がいる部屋の中には若者が多いが老人も見受けられる。
「下っ端の面倒は下っ端が見る。おい、ラルフ!」
声に押されて部屋の入口近くに寝床を誂えている男が渋々といった様子で凜の前に出てきた。
ふわふわした栗毛の目と髪に小麦色の肌をした男だったが、まだ年若いらしく他の男達に比べて顔に丸みがある。
ひと目見ただけでは年の頃は凛よりも年上に見えたが案外年下なのかもしれない。
「お前みたいなチビに何ができるんだよ」
ぶつぶつ言いながらラルフと呼ばれた青年は天井から吊り下げた寝床から降りると、凜のことをチラリと見下ろしただけで声もかけずに部屋の外へ出て行くので凜も付いて行った。
甲板まで連れて行かれると無言で矢鱈に硬い四角い箒と紐のついた桶を突き出され、凜が受け取るやいなやラルフはさっさと元の方向へ戻ってしまった。
凛は広い甲板を見渡した。
潮やゴミがこびりついていたりして綺麗とは言いがたい。
どう考えても磨けということなのだろうと判断し、凜は黙々と磨きはじめた。
鍛錬を積んでいるとはいえ、力を込めて丹念に仕事をすればかなりの労働だ。
昼前ごろから始めた掃除は日が暮れるまでかかってやっと終わった。
磨いている間中そこかしこから視線を感じた。
値踏みされている不快感はずっと続き、掃除が終わるとどっと疲れの波が押し寄せてきて凛は夕飯も取らずに男達と同じ吊り寝床に転がりこむと意識がどんどん遠のいていく。
いけないと思いながら凜はフェンリルに渡さなかった2本の千本を確かめるように撫でた。
***
その夜、凛は睡眠薬を飲んでいなかった。
昨夜までのように睡眠薬を飲んでいたなら死んだように寝こけていただろうに、今夜は近付いてきた不穏な気配に反応していた。
だが、回復しきれていないのか、暫く鍛錬を怠ったうちに神経が鈍ったのか、自分の肉体が言うことを聞かなかった。
ダメだと思った瞬間にも動き続ける自分の手を止めることができなかった。
久しぶりの肉の感触を自覚した途端、意識があっという間に覚醒して頭から血が引いていった。
耳に飛び込む嫌な叫び声に身体が反応してその場を逃げ出していた。
常に闇を動いていたから人を殺傷する場を味方以外の他人に見られたことはあまりなかった。
ここは洋上で逃げ場などないと思い出したのは波の揺れに無意識に身体の平衡を保とうとしていることに気付いてからだ。
甲板に飛び出るといつもよりも光を強く感じて凜は空を振り仰いだ。
真ん丸な月が煌々と輝いている。
そんな美しい光景を眺めながら、醒めた頭の奥の部分は全員殺すか海に身を投げるしか道がないと計算していた。
「夜中になんだってのよ、お前ら」
間延びしたような静かな声は、沸騰したり冷やされたり激しく揺り動かされた脳に落ち着きを取り戻してくれたようだった。
銀の髪がもうひとつの月のように白く光っていて人ではないように見えて、うっかり見とれながらきっとこの人とやり合えば勝ち目はないと直感していた。
それは揺るぎなくも苦い知覚だ。
子供のころから抱き続けた劣等感を刺激する。
「副船長!」
対峙している男達があげた声を聞いて初めて得体の知れないこの男の立場を知った。
参謀か何かだろうと思っていたから当たらずとも遠からずといったところだ。
そういえば知らないのは立場だけではなかった。
この男の前に立つといつでも頭が上手く動かず心を鎮められなくなる。
無性に焦燥感に駆られた凜は背後に気配を感じて我に返った。
しかしそれには一瞬遅く、振り向いて身構える前に凜はわき腹に衝撃を感じ、次の瞬間には甲板の上に叩きつけられて跳ねた。
「ぐっ・・!!!」
「俺の船でゴタゴタを起こされるのはさすがに迷惑なんだよな。どう捌くかと思えば、結局こうなっちまってよー」
叩きつけられた甲板の上で凜は試されていたと気付いて項垂れたくなった。
形勢が完全に定まったと勢いづいた男達がニタニタと嫌な笑みを浮かべているのを見える。
このまま私刑にされて海の藻屑に消えるのかもしれないと思うと悔しくてやりきれない。
どうにかしなければと思うのに、前にはディーツ、後ろには白髪の副船長が立ちはだかっていてどうしようもない。
唯一の頼みの綱と思えるフェンリルも、自分の立場を危うくしてまで凜を助ける義理はないのは明白だ。
しかし事態は凜を見放したわけではなかった。
鈍い音と共に男達が次々と殴り倒されて凜と同じように甲板に転がっていく。
「おめえらもヘラヘラ笑ってんじゃねえ!! こんな子鼠一匹に大の男が何人も振りまわされやがって!! ヴィント! あと始末しとけ!」
言うが早いかディーツは凜の襟首を片手で掴んで投げ込むようにして自分が出てきた船尾楼に放り込んだ。
後から入ってきて戸を勢いよく閉めるとディーツは怒鳴った。
「てめーはアホか!!」
共に海で生きる男達でさえ怯む程の、今にも一刀両断にされそうな怒鳴り声と眼光だが凜は気付け薬程度の感覚で聞いていた。
どうやら自分が私刑を受けることはないということが分かったくらいだ。
まったく、此方に来てからまともに脳が動いていた試しがない。
「よっぽど暢気なお家の出なのかよ? こんな味方も逃げ場もないような所で真っ向からヤリあって無事で済むはずがねえだろ」
ディーツは椅子にどすりと身を投げた。
「なんつーか、処世術を知らねえっていうか、馬鹿正直つうか・・曲者揃いのこの船でお前みたいな弱っちいのがやってこうと思うなら頭を使え。プライド捨てて媚びるのが普通なんだよ。それで男じゃなくなるわけでもねー。命あってのモノダネってこともある。俺の言いたいこと分かるか?」
凜は神妙に頷いた。
もしはっきりと覚醒している状態で彼らに迫られたら船長の言うように要領よく対応できたかというと男でないことには関わらず答えは否だ。
それができないから里でも色の仕事に出されなかった。
幸運にもそれを補う役目を与えられたから出来損ないのくノ一でも誇りを持って生きていられた。
祖父が与えてくれたたくさんのものの中でも“名”と比類するものだ。
だがここにはそうして凜の居場所を与え、守ってくれる者はいない。
「改めて聞く。お前、何ができる?」
全てを自分で得なければならず命が懸っている今この状態でならばもしかしたらできるだろうか。
否、絶対にできなければならない。
ここで生き延びなければ伊通の元には帰れない。
「・・・ぁんでもっ、・・・なんでも致します。なんでもできます」
腹を括ったつもりでも声は震えた。