Ⅲ-2 最初の関門
ヴェルデフォル号に漂着した2日目は寝て起きて吐いての繰り返しだった。
熱も出て、一日中部屋にいたフェンリルに大量の水と薬を与えられた。
「薬の効きが悪いのはなんだ、ソチラの人間とやらだからか?」
むしろ逆だろうと凜は思った。
耐性をつけるために幼いころから様々な毒を摂取していた凜は薬もあまり効かない。
此方に来て飲んだことのない薬を飲まされているために少々効きは悪くても眠ったり解熱できたりと効果が表れているのだ。
「フェンリル先生、お願いがあります」
「あ?」
「もしお許しが出るならば、武器を一つ頂けないでしょうか。お願い致します」
千本ではあまりに心許なさすぎた。
さすがに忍者のいないこの船にクナイがあるとは思わないが刀でも手に入ればと思う。
「武器ってお前、持ってるじゃねえか」
何気ない返事だったが、凜が武器を持っていても関係ないという余裕を見せつけられたようでもある。
凜は袴の裾をまくって装着していた千本を取り外した。
「これはあくまで補助にしか使えませんから。できれば短刀のようなものがあれば頂きたいのです」
五寸程の太い針が両足合わせて12本装着してある。
「随分と原始的な武器を欲しがんだな」
千本は接近戦でも中距離戦でもそれなりに使えはするが一撃での殺傷力は低い。
目などの急所を狙えれば勝ちを取れるがそれだと的が限定されすぎる。
中距離では足止めに使えるくらいで致命傷はあたえられない。
やはりクナイに近い殺傷力のある武器が欲しかった。
手に馴染ませるように千本を弄んでいると突然奪われた。
「とりあえず没収な」
「そんな! 返してください!」
「んな必死な顔しなくてもこの部屋にいる限りは必要ねえよ。武器の件はディーツに相談してやるから睨むな」
取り返せないのも追いかけられないのも全て体調が悪いせいだ。
一刻も早く良くなろうと凜は改めて決意して布団に潜りこんだ。
***
「なんだよ、この針?」
「武器だとよ」
「えー、もしかしてあのガキの!」
太い針にしか見えない鉄の塊が凜の所持品だと知るとディーツは嬉々として千本を弄くりまわし始めた。
「こんなの持ってたかぁ?」
「仕込み武器だ」
「へー? どこに?」
「太ももだ」
「ひゅー、そりゃぁなかなかソソるな。ヴィントはこれどう思う?」
ニヤニヤと話しかけられ、ヴィントは本から顔をあげたがすぐに文字に目を戻す。
「殺傷能力は低いだろ。守るとこ守ってりゃ少なくとも殺されはしないでしょ」
「リンも補助だと言ってた。だから武器が欲しいんだとよ。どうする、船長さん?」
「俺は反対デス」
即答したのはヴィントだがディーツは意に介さなかった。
「考えてもいいけどな。武器ならいくつか余ってたし欲しいの持ってかせろよ」
「ディーツ」
「なんだよ。そのうち戦闘にでもなりゃそんなもん持ってても使い物にならねーだろ」
「死んでくれれば面倒が省けて儲けもんでしょ」
ヴィントは相変わらず本に目を落としたままだが、ディーツは彼が軽く苛立っていることに気づいた。
「お前、無関心装ってっけど実はかなり気にしてるよなぁ? あんな子ネズミ一匹、何が気になんだよ」
はっきりと答えずに別に大したことじゃないけどねと呟いてディーツはページを捲った。
初めて船尾楼の部屋で会った時、凜はヴィントをひと目見て怯えた。
あの時は戦闘後とはいえ、あっけなく終わってしまって殺気立っていたわけでもなかった。
子供の凜に対してそう警戒をしていなかった。
普段のヴィントは恐怖を撒き散らすような存在ではない。
常に気張っていても仕方ないから普段はそれなりの隙を作るようにしていたし、彼の端正な美貌を見ると老若男女問わず警戒を解く者が多い。
それなのに凜はヴィントを見て張りつめたような緊張感で警戒を露わにし、まるで毛を逆立てた獣のようだった。
見知らぬ船で見知らぬ人間に会えば警戒もするだろうとは思う。
だが警戒の仕方が尋常ではなく、カタギの反応とは思えなかった。
命の間合いを知っていて、正確に距離を取ろうとしているような
護衛を務めていたというのだからカタギではないのだろうが、妙な既視感があった。
絶対に油断してはならないと頭の奥でヴィントの経験が吠えたてた。
――それに・・・あの目・・・・
真っ直ぐに目を見つめられて居心地の悪い気分になった。
気付かぬうちに漆黒の瞳に飲まれそうになっていたのだ。
やたらと布を使った服を纏って華奢に見えた身体はしっかりとした重みをディーツの手に伝えた。
間近で見たきりりと閉じられた唇は小さく紅く、思わず指で嬲って舌で抉じ開けたくなった。
――ガキ相手に何考えてんだ、俺は。ガキには興味ないし、アレはオンナには見えない・・見えない
15歳という申告をヴィントは信じていない。
「ヴィント?」
「だからなんでもないって。もう俺に構わないでいーよ、関係ないし」
「はー? お前やっぱなんか変じゃね?」
――俺ってもしかして欲求不満? こんなことって今までなかったけど早く港に着いてほしいのかも
***
夜になるとやけに目が冴えた。
凜の身体は完全に昼夜が逆転しているようだった。
昼間はどろどろに重かったにも関わらず夜になって嘘のように軽くなった身体を翻し、凜は音もなく寝台を抜け出した。
穀物を牛の乳で煮た粥のようなものを出され、食べたことのないような甘さに閉口しながら完食したが、その後にまた全部吐いてしまって身体の中は空っぽだ。
人の気配がしないことを確認して甲板に出る。
今夜の月は雲で隠れていて明かりのない甲板はとても暗かったが夜目の利く凜には関係ないしこれから行う修行にはもっと必要なかった。
凜は目を瞑って甲板に立つ。
海賊と戦った時、船の揺らぎが命取りになった。
船の上でもなんなく走れなければ何もできない。
片足で立ち続けてよろめき倒れたり、板目に沿って歩いてよろめき物にぶつかったりと、試行錯誤をしながら修業を続けるうちにだいぶ身体は慣れてきたようだった。
だがあまり夜更けまで起きていてはいつまで経っても昼夜逆転した身体を正常に戻せなくなる。
最後にしようと凜は船の手すりに飛び乗った。
甲板を蹴って軽々と手すりの上に降り立つと、目の前に暗い海だけが広がった。
このまま海に飛び込めば再び気付いた時に瑞穂国へ戻り着いているのではないか。
虚しい思いに囚われて、このままこの場に立っていれば本当に海に飛び込んでしまうような錯覚を見ていた。
直後、波に船が大きく揺れて我に返り、宙返りの要領で甲板に飛び降りようとした。
しかし凜が飛ぶ前に後ろから腕を引かれて凜は引き摺り降ろされて、誰かの身体の上に仰向けに落ちた。
――気配に気付かなかった!
驚いて咄嗟に掴まれた腕を振りほどこうと思い切り身を引いたが、もがくこともできない程頑強な力によって捕らわれていた。
――よりによって武器を一つも持っていないのに!
拘束を振りほどこうとする力は弱めないまま、相手を見ようと振りむくと目の前に月が浮かんでいた。
いつの間にか空いた雲の切れ目から落ちる光に照らされて白く光る月は凜が恐怖した男ヴィントの髪だった。
逆光のせいで蒼いはずの瞳は暗く陰っている。
そのことをどこかで残念に思う自分に気付いた時、凜は我に返ってヴィントを睨み、再び無遠慮に触れてくる腕を振りほどこうと更に力を込めた。
だが男の力に敵わず、すり抜ける技も使えないほど隙なく両腕を掴まれている。
「何のおつもりですか! 離してください!」
「それはこっちのセリフ。あんなところに立って、海に飛び込むつもり?」
ヴィントは凜の言動の全てを逃すまいと目を眇めた。
船が揺らいだ一瞬、凜の身体は少し前のめりになっていて、傍目からは海に飛び込もうとしているようにも見えた。
もしや国かどこかのスパイかもしれないという疑いが浮かんだ。
「・・・帰ることができるのならば飛び込んでしまいたいと思いました。ですが・・・・」
――泣くか?
凜の黒い睫毛が震えたのを見つめながらヴィントは冷静に観察するが凜は瞳を濡らさなかった。
「そんな不確かな賭けに出る気にはなれませんでした」
力のない答えとは裏腹に凜の瞳はまっすぐにヴィントを見つめている。
――気配も感じさせないなんてやっぱりこの人、忍者に近い気がする
――猫かと思ったけど犬っぽいし、スパイって考えは案外外れてないかもな
二人の全く交差していない考えは、互いに知ることなく海に霧散した。
「離してください」
「あー、ごめんごめん」
掴まれていた部分を解放されて一気に血が通った痒さに凜は腕を撫でさすった。
「大丈夫?」
「はい」
凜は差し延べられたヴィントの腕をそっと避けて立ちあがった。
「嫌われたかな」
ちっとも残念ではなさそうな声でヴィントが問う。
「・・・申し訳ございません。昔から人に触れられることが苦手なのです」
「ふーん・・・もしかして親無し?」
「? いいえ? 両親とも健在です。何故そう思われるのです?」
「だって、ハグとかするでしょ? それとも家族は別なの?」
「ハグ?」
「抱き締めたりさ、するでしょ?」
「そのようなこと・・・」
瑞穂国ではめったなことでは抱き締め合ったりなどしない。
せいぜい手を繋いだりする程度で、抱き締め合うといえば恋人同士くらいのものだ。
その上、忍者は全身が武器のようなものだから、それが血の繋がった家族であったとしても手を触れ合うことすら気を遣う。
抱き締めると言われて、恋人も夫も持たない凜が思い出したのは閨房術の訓練で、完全に仕事の世界だ。
「へー。そう。変わってるね」
変わっているのは此方だと凜は思ったが口には出さなかった。
「ま、もう遅いんだからさっさと寝な。元気なら仕事してもらうことになるんだし。おやすみ」
「はい。おやすみなさい」
駆けていく凜の後ろ姿を見ながら、ぶ厚く着こんだ服のせいで男か女か分からなかったとヴィントは思った。