Ⅲ-1 最初の関門
黒い髪がたなびいている。
「・・・・・アンタ・・・・・・・」
「・・・・くし・・!!? ・・・かみ・・・」
「・・オレが・・・・・・・わる・・・・・・・」
「!!?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・強運の賜物ってやつさ」
白い手に押され、抵抗する間もなく突き飛ばされた。
***
真っ逆さまに墜落して行く感覚に襲われて跳ね上がるように飛び起きた。
頭の奥に耳障りな音が残って消えない。
全身にべったりと汗が滲んでいるのに寒気がするほど身体が冷えている。
頭痛は治まったがその代わり身体のだるさとして残っている。
随分寝ているはずなのに全く睡眠が足りていないような感覚。
だがその異様な疲れとフェンリルに飲まされた薬のおかげで凜は一応眠りにつける。
普段の凜ならばこんなワケのわからないところで眠れるわけがない。
無防備な状態を極度に厭うのは忍の性だから仕方ない。
今だって目が覚めてしまえばこんなに神経が研ぎ澄まされて遠くの物音にさえぴくりぴくりと身体が反応する。
敵陣に乗り込む時は背中を預けられる味方がいたからよかったが、今はたった一人でさらには体調も最悪だ。
自分の身体が自分のものではないような不安に駆られて、隠し持っていた千本に手を伸ばして確認する。
せめてクナイがあれば良かったのにと思わないでもないが、金属の冷たく滑らかな手触りで気を落ちつけて布団から滑り出た。
窓の外は月の光と海面に反射した白い光が差し込んではくるが暗くてほかには何も見えない。
そっと廊下に出て甲板まで歩いて行くが、人の気配を一々避けて進んだために少し時間がかかる。
それだけでこの船が今まで見たことがないほどの大きさだと分かり、まるで一つの小さな城のようだと小さく溜息をついた。
仮に逃げようとしても海の上。
気配を探った限りでは船員の数は40名弱だろうか。
数だけでいけば奇襲を仕掛けて船を乗っ取ることくらいは可能だ。
だが凜は既に三人の海賊に会っている。
あの三人の存在を知ってしまってはそんなことする気になれない。
出し抜くどころかむしろ逆に殺されてもおかしくないだろう。
医師だというフェンリル。
凜の周りで髭を生やしている者は皆綺麗に整えて品があったし、そうでなければ強面に見せ凄味をつけるためにか単に剃る暇もない無知で野卑な賊か浮浪者だ。
顔じゅう髭だらけで不潔極まりないように見えたし、下品な悪ふざけも好んでするようだったが、診察や薬を煎じる手際は見事だったし、礼儀をわきまえた態度もできるようで、その上何を思ってか凜がこの船に乗り込む手助けをしてくれるという。
もちろんあんな賊まがいの医者などを信用してしまってよかったのかと堂々巡りの自問自答はやめられないし、冷静に思い出してみると、玲瓏に似ているなどと思ってしまった自分はあまりに不敬だったのではないかという呆れで身が縮む。
そもそもの話、凜は自分が生きていることがとても不思議だった。
理解できないのはディーツと名乗った船長もそうだ。
名前に共通点があるからというだけの理由で身元も気性も分からない者をあっさりと自分のテリトリーに入れることを許した。
忍ならば絶対にそんなことはせず、怪しければ即抹殺するか最低でも牢に繋ぐ。
フェンリルに一任したということなのだろうが、余程フェンリルを信用しているのだろうか。
だとすればあのディーツには凜が女だとバラされるだろう。
そうでなければフェンリルは凜を庇ってもなんの利点もないにも拘わらずにディーツを裏切っていることになる。
理由があるとすれば、彼らにとって凜は脅威でないとみなされているからか。
本当の年を知っているフェンリルでさえ子供にしか見えないらしいのだから、まさか平気な顔をして人を殺して生きてきたなどとは思いもしないのだろうなと苦笑いが漏れた。
――それにあの男・・・
海色の瞳を持つ白毛の男。
隙だらけに見えたが凜がいったん牙をむけば豹変するだろうと直感した。
何を考えているかも恐ろしさの理由もまったく分からない得体の知れない男と共に生活することに無性に不安を感じる。
しかもあの男は凜を船に置きたくないようでもあった。
考えながら歩いているうちにやっと甲板に辿りついた。
「っ・・・」
潮風は驚くほど冷たく、空には見たこともない星空が広がっていた。
考えも及ばない光景に、全身の血が一気に引いて身体の熱があっという間に冷えていくようだ。
北を示す蒼い星は見つからず、月の影も凜のよく知る形とは異なる。
北も南も分からなければいったい何を頼りに前に進めばいいのか。
だが方角が分かったとしても故郷の方向は分からないし、ここがどこなのかすら分からない。
暗い闇を照らす淡い光から逃れるように凜はくずおれた。
「違うっ」
床に向かって吐くように呟いていた。
「・・・・・・じゃない」
胸元でひっそりと揺れる鈴を硬く握りしめる。
――絶望じゃない、諦めてない、泣いてない。ただ体力の落ちた身体が船の揺れに耐えられなかっただけ。修行をしなきゃ。何が起きてもいいように。私は大丈夫です、伊通様――――――