Ⅰ-1 異世界へ来た忍者
―――――これは一体・・・
凜は茫然とした。
自分は業火に焼かれたはずだった。
自分の体が焦げる臭いさえ嗅いだはずなのに。
見渡す限り青い海の上に筏とも言えないような小さな板きれに揺られているというこの状態にはまったく見当もつかなかった。
どんよりと澱んで風のない空も不自然なほど凪いだ波も嵐の前の静けさのようで不気味だ。
凜は板の上で平衡を保つように蹲った。
茫洋と広がる大海原にたった一人、心細さだけが募る。
耳慣れない波音を縫って、清冽な澄んだ音がした。
凜は縋るように衣の上から胸元を押さえた。
「伊通様・・」
***
「これをやる」
差し出されたのは小さな鈴だった。
金色の丸い鈴。
揺らすと細く長い美しい音がした。
「音もなく近付かれたらそなたが来ても私は気付けないだろう? だからこれを着けておけ」
人から何かを貰うことなどなかった。
年下の主君から貰った大切な凜の宝物だった。
美しい黒髪と背格好が似ているという理由で伊通の傍に侍るようになって3年。
いつでも素直に着けていた訳ではなく、音がして困る時は詰物をしていたが、けして外したことはなかった。
***
曇っているために日差しが辛くないのがせめてもの救いだったのかもしれない。
もう何刻このまま浮かんでいるかも分からない。
せめて他のことを考えようとしても、自分がいつどうしてこんな訳の分からない状況に置かれたのかということに行きついて答えの見つからない謎の中で堂々巡りだ。
俯いて見つめていた波の流れが変わったような気がした。
あれは・・船?
形状や水に浮いていることから間違いないと思うが、凜が見たことのないような造りになっているし、帆も複雑で船中に縄が張り巡らされている。
それにあんなに大きなものは見たことがない。
それはフリュートと呼ばれる比較的小型の商船だったのだが凜の預かり知らぬことである。
このまま不安定な板だけに縋りつづける危難から逃れるため、凜はあらんかぎりの声で助けを求めた。
やがて、船から一漕の小舟が向かってきた。
九死に一生を得たと思ったのも束の間、小舟に乗っている人物を見て凜は驚愕した。
―――鬼!?
凜が見た男は酒でも過ごしたような赤黒い肌をしていて、髪は山吹色、軽く六尺を超えていそうな筋骨粒粒の体躯をしていた。
険しい表情を浮かべて近付いてきた男は、しかし凜の様子を見るとなぜかとても驚いた顔をした。
どことなく愛嬌のある顔だった。
「まさか・・本当に人魚なのか?」
それは凜に向けられた言葉らしい。
凜は慌てて首を振った。
「私はそのようなアヤカシではありません!」
早口で答えると、男は破顔した。
人好きのする笑顔を浮かべながら水に半分浸りかけている凜の襟首を掴んで軽々引き揚げた。
あまり根拠はなかったが、仮にこの男こそが鬼かアヤカシの類いだとしても、悪さをするようなものではないのだろうと思った。
「貴殿はあの船からいらしたようにお見受けします。恐縮ですが都までとは言いません。せめて陸まで乗せていってはいただけないでしょうか」
凜はすぶ濡れのまま狭い小舟で丁寧に姿勢を正して懇願した。
男は笑って凜の頭を撫でた。
「それは俺には決められねえが、うちの船長は子供好きだから大丈夫だろうさ。せっかく助けた奴をみすみす殺すわけにもいかねえし」
子供と言われたことは少々癇に障ったが、凜はほっと安堵の溜息を吐いた。
だが、凜の災難は幕が開けたばかりだった。
*一寸:3.03 cm 一尺:30.303 cm