9:吾輩と追跡と黒い影の飛来
吾輩ら四匹は連なり、狭い溝の中を先ほどねずみが逃げて行った方角へ向けて歩みを進めていた。
現在その並び順は吾輩、マロン、小次郎、そして大ちゃんである。
しかし、中はやはりというか当然というか、大変汚い。そんな中を吾輩ら四匹は仲良く這いずり奥へと進んでいく。中は時折差す外の光以外は真っ暗であったが、吾輩らの行動になんら支障はなかった。
『絶対に、ぜえったいにわたくしはこのような場所には入りませんわっ!!』
と駄々をこねたマロンの気持がよくわかる。後ろから浴びせられる不機嫌極まりない視線に、何度目かもわからぬ謝罪を心中で繰り返す吾輩。ごめんない、マロン。
そして、小次郎は現在絶賛罪悪感に苛まれ中である。
『拙者があそこでちゃんと捕まえておれば……』
そう言って何度も吾輩に頭を下げてきたのである。しかし、そんなことを言ったところでなってしまったものはいたしかたない。なに、見つければいいだけのこと。ひょっとしたら途中で落としているかも知れぬしな。
ずんどこずんどこ進んでいく。もうここがどこなのか皆目見当がつかぬ。帰りの際はどうしよう? という思いが脳裏をかすめたが、絶対に満月を取り返すまでは帰らないと心に固く誓う。
それからどれほどの時間が経ったのだろう。目の間に二又の別れ道が現れ、吾輩は途方に暮れてしまった。
「どちらに行けば良いと思う?」
「さあ? どちらでもよろしくなくて?」
不機嫌丸出しといった感じにマロンが答えてくれた。他二匹も口ぐちに「拙者が選んだら絶対に間違えるに決まっておる故」とか「あー、うーん。すまねえ。全然見当もつかねえ」といった感じでどうしようもなくなる。どうすればいい。吾輩もどちらに行けばいいのかさっぱりだぞ。あのねずみが目印になるような物を残してないかと、目を皿のようにして辺りを確認するが吾輩をあざ笑うかのようにそんなものは見つかりはしない。
吾輩らは本気で途方に暮れてしまった。焦る気持ちが積もる。どちらの道を行けばいい?
その時、吾輩はとあることを思い出した。そう言えば、以前似たようなことがあった時、マロンが言った方向に探し物があったのではないか?
「マロン」
「なんですの?」
マロンの返答は相変わらず棘々しい。負けるものか。
「どちらへ進めば良いのか、選んでくれ」
「……はあ? 貴女馬鹿じゃないですの? そんな大切なことをわたくしに決めさせるなだなんて」
案の定、驚きと呆れを足したような返事を返される。
「いや、真面目な話だ。吾輩はマロンに決めてもらいたいのだ」
「そんなこと、言われましても……。それに間違えてたらどうするおつもりですの?」
「ない。マロンは間違えないさ。この間も、その前もその前の前も小次郎を町中から探し当てたではないか?」
「そ、それはっ……!」
もごもごと後ろでマロンは言う。畳みかけるように吾輩は続ける。
「マロン、自分の力を信じるのだ。吾輩には今はお前しかいない。どうか力を貸してはくれないか?」
「…………ああ、もうですわっ!」
ついにマロンが折れた。
「左ですわ左! もうどうなっても知りませんことよ!」
やけくそ気味にマロンが叫んだ。
「了解した。ではみんな行こう」
そして吾輩ら四匹は左の道を再び這い進み始めた。
それから数分後。
吾輩らはかのご主人の満月を奪い去ったねずみと遭遇した。ばったりとである。
「……」
「……」
あまりに突然であったので、しばし吾輩らの間に沈黙が流れる。お互いの時が止まったかのようにしばし見つめ合う。
「……そんな、まさか、本当にこっちにいただなんて……」
そんな感じの絶句したようなマロンの呟きが背後から聞こえてきた。信じていたとはいえ、流石にここまでは想定していなかったので、吾輩も現在驚愕しきっており思考が働かない。
「チュ、チュウッ!」
そんな中、真っ先に意識を取り戻したのは前方のねずみの方であった。ご主人の輪郭のみの満月を咥えたまま、吾輩らに背を向け一目散に逃げて行った。
「まっ、待て!」
そこでようやくはっとなり、吾輩らも慌てて後を追いかける。ここに狩る者狩られる者の制止を駆けた追いかけっこが始まったのである。
すばしっこく逃げるねずみ。追う吾輩たち。すいすい逃げて行くねずみに、吾輩は四苦八苦しながら追いかける。この場において体格差が仇となっていた。
「くっ……!」
それでも吾輩らは追いつかんと走る。駆ける。追いかける。ねずみも追いつかれまいと走る。駆ける。逃げ回る。しかし、ようやく走りやすい体勢を吾輩は発見する。ぐい、と一気に速度が加速する。たたたたたっ。もう少し。もう少し。あとちょっと! あとちょっとでこの手が届く! よしっ、今だ! 吾輩はねずみに向かって飛びかかった。がしかしねずみの方も必死であった。寸でのところで身をひるがえし、吾輩を避ける。しまった! しかしそう思った時は時すでに遅し。すたこらさっさとねずみは溝から地上へと飛び出してしまったのである。「追うぞ!」言うが早く吾輩も続けざまに飛び出す。そこはもう吾輩が知る景色とはかけ離れた景色が広がっていた。広い道路。田んぼ。小川。木。森。大きな山々。いつもりも高く感じる空。澄んだ空気。どこだここは? しかし今は構ってられぬ。吾輩は急いで地上に視線を戻す。ねずみは前方を走っていた。くそ、まだ追いつける。吾輩はまた駆けだした。距離は溝から飛び出した時間の差異により、先ほどよりも少々遠い。だが、外へ出た今、吾輩らの方が有利である。このまま行けば追いつけるぞ! しかし、それはどうやらねずみも同様のことを考えたらしい。不意に道をそれ、雑木林の中へ飛び込んでしまった。
「しまった!」
「任されよ」
その時、一陣の風が吾輩の横をすり抜けて行った。疾風と化した小次郎が、矢のように鋭く空気を切り裂き駆けて行く。
「待つでござる!」
ねずみを前から回り込む形で小次郎は進路を阻む。でかしたぞ小次郎! ねずみが怯えたように足を止める。しかし奴も必死である。すぐさま進路を右へと変更し駆けだそうとする。そうはさせるか。小次郎のおかげで追いついた吾輩が今度はその進路を塞ぐ。
「チュウ!」
悲鳴を上げ、ねずみがまたもや急停車をする。そしてすぐに吾輩から背を向け、今度は反対側へと駆けだそうとした。
「させませんわっ!」
今度はマロンがその進路を阻む。またもや急停止。しかし奴は諦めない。最後の逃げ道となった、元来た方向へ身体を向ける。
「のわあああああ!!」
怒号とともに一番足の遅い大ちゃんが転がるようにその進路へつっこんできた。
「ぜえ、ぜえ、ぜえ……――へっ、逃がさねえぜこの野郎」
汗が鉄砲水のように噴き出しながら、息も絶え絶えにそれでも不敵ににんまりと笑いながら大ちゃんはそう言い切った。これで完全に進路も退路もない。吾輩らの絆の連携が成せる業である。四方を囲まれ。絶望さえ感じられる悲鳴を上げるねずみ。それでも満月はまだ離さない。強情な奴である。
「さあ、それを返せ。返せば命までは取らぬ」
じりっ、と吾輩らは輪を縮める。逃げ場のないねずみは身を竦ませた。それでも満月は咥えたまま。いい加減にせよ。
「さあ、早くご主人のそれを返せ!」
「カァ!」
追いつめたと思ったその時。吾輩らの頭上からそんな甲高く耳障りな声が聞こえてきた。慌てて見上げる。しかしそれよりも早く漆黒の羽が迫って来たのである。それは、鋭く鋭利な角度でねずみが咥えていた満月を奪い、また空へと舞い上がった。
「何奴!」
小次郎が叫んだ。吾輩の目の前で再び満月を奪った漆黒のそいつは、また甲高く「カァ」と鳴いた。
「チュウ!」
これ幸いとばかりに、ねずみが吾輩の横をすり抜けて一目散に逃げて行った。しかし、そんなものに構ってはおれぬ。吾輩は空の漆黒を唖然としたまま見上げた。漆黒の羽を持つそいつは、賢くずる賢い、そして狡猾な鳥類、からすであった。
「てめえ、それを返しやがれ!」
ひどく威圧感のある声で大ちゃんが叫んだ。しかし、頭上のからすはどこ吹く風といった感じで鼻で笑うように鳴いた。
「あっ、待てやコラァ!!」
そんな大ちゃんの怒号もむなしく。
無情なまでに軽やかにからすは、また吾輩らを見下しながらあざ笑い。
遠くの山へと飛んで行ってしまったのである。
吾輩はそれを、ただただ唖然としたまま見送ったのである。