8:吾輩と満月と再びの危機
「もう真人さんたらいったい何をしているんですか! 心配したんですよ!」
「ご、ごめんない。申しません。反省しています。すみません」
「本当に私がどれだけ心配したことか! 本当にわかっているんですかっ!?」
「す、すみませんでした。ほんとのほんとに反省しています。この通りです。本当にすみませんでした。もう絶対二度としません。今この場でそれを誓います。ごめんなさい」
今まで吾輩が見たこともないような剣幕で、周りを一切顧みず美咲がご主人に怒号を飛ばしていた。吾輩ら四匹の全身の毛が逆立つほどの鬼気迫るそれを受け、ご主人は地面に手を付き、なんども美咲に謝っていた。しかし、そんなご主人の姿が目に入らないのか、美咲も怒りの矛を抑える気配を一向に見せない。これが真の鬼か。
「まあまあ、美咲さん。その辺で許してやってくさい」
「……千代子さん」
柔らかな笑顔をいつ何時も崩すことない千代ばあは、すでに鬼へと姿を変貌してしまった美咲にまったくこれっぽっちも臆することなく、それでも穏やかにそう言った。
「こうして私も真人さんに助けられたことですし、そのことでここはどうか。ね?」
「…………はい。わかりました」
不承不承といった感じで、しかし美咲は頷く。その時のご主人の顔がまた印象的であり、地獄の底で一本の蜘蛛の糸をでも見つけたような顔をしていたのである。そんなに怖かったのか。いや、あれは吾輩らも毛が逆立つほどに恐ろしかった。尻尾もぴんと尖がったままである。先っちょ真っ白な黒色針金尻尾。
そんな美咲たちの後ろでは、恐ろしいほどの水量と水圧を放出している真っ赤な火達磨のごとき車が数台鎮座しており、大勢の男たちの声が響き渡っていた。あの倒壊してなお激しく燃え上がっていた千代ばあの家の炎を鎮火させるべくやって来た消防車というものらしい。あの真っ赤な装甲がこちらに向かって走って来たのを確認した時、吾輩の背筋に薄ら寒い物が走ったのは言うまでもない。
ようやくといった感じか。今まで悪魔のごとき炎よりも轟々言っていた水の魔物の咆哮が止む。見やると、数刻までいた千代ばあの家は、それはもう無残といったありさまに変わりきっていた。幸い横の家に飛び火しなかったが、おそらく千代ばあの家が広かったのも飛び火しなかったひとつの要因であろう。しかし、真っ黒焦げの煤塗れとなってしまった千代ばあの家を見ていると、胸の内側から哀愁が漂ってきた。結果的に誰も失わなかったが、こんな幸運、いつまで続くのだろうと思わずにはいられない。空を見上げると、真っ黒な灰が空から雪のごとく辺りに舞い降りていた。ご主人たちとともに見上げたのは、あれであった。現在も絶え間なく降り落ちている。
ふとご主人を見ると、ご主人は炎の中に飛び込む際に脱ぎ捨てた厚着の衣類を地面から取ろうとしていたところであった。
「あっ」
思わず吾輩はそんな声を出す。横で不審そうなマロンの顔がちらりと窺えたが、しかしそんな些細なことにすら気にならない。否、気にするだけの余裕はない。しかし、ご主人は美咲の方を見ながら拾ったためにそれに気付いていない様子であった。
それだけならすぐに気がついたかもしれない。しかし、現実には消防隊員の人々がご主人の方へ駆け寄ってきて、また美咲と同じように説教を始めたのである。それで、ご主人は美咲に怒られている時と同じように頭を何度も下げ、そしてその結果それに気付くことはないように思われた。
ご主人の厚着の衣類から、今朝方見せてもらった輪郭のみの満月の入った箱が地面に零れ落ちていたのである。
ご主人が気が付いてない、そして気がつく気配がないことに気がつくと、吾輩は焦った。そして駆けだそうとした。早くあれをご主人に気がつかせねばと、駆けだそうとした。しかし、その前に吾輩は息を呑み絶句したのである。吾輩が駆けだそうとした瞬間、何者かがそれに気付かず蹴り飛ばしてしまったのである。
吾輩はその光景に言葉を失った。蹴られた箱は、人々の間を運悪くいっそ気持ちよいほど続けざまに蹴られていた。そして箱が開き中から勢いよく輪郭だけの満月が飛び出してしまった。「あっ」再び吾輩が声を上げるか否かのその瞬間、その満月もまた何者かに蹴り飛ばされ、大きく人々から離れてころころと道脇の溝に落ちていってしまったのである。
「ん? どうしたんだ、ミーナ?」
大ちゃんが不審そうに吾輩に尋ねてきた。
「満月が」
ご主人があんなに大切そうにしていた満月が。
「満月が落ちてしまった」
「は? ――ちょ、おい!」
不審そうな声を出す大ちゃんを他所に、吾輩は満月の落ちて行ってしまった溝へ向かって駆けだした。慌てたように他の三匹も付いてくる。溝を覗き込んだ吾輩に、三匹はいぶかしんでいるようである。
「どうなされた?」
小次郎が訪ねてきた。
「ご主人の大切な物が今この中に落ちて言ってしまったのである」
落ちた底は薄暗く、昼間にも関わらず微妙に中が把握しづらい。一体、あれはどこへ言ってしまったのであろうか? 不安がよぎる。
「なんと! それは真か!」
後ろで吾輩の返事を聞いた小次郎が声を上げた。
「拙者にどうかお任せを。かような場所に淑女が入るべきではないのでござる」
言うなり小次郎が溝の中に飛び込む。吾輩が口を挟む隙もなかった。
吾輩ら残る三匹が溝の中を覗き込む。と言っても、すぐ目の前に小次郎がいるため、覗き込むと言うのも少々変な言い方ではあるのかも知れないが。
「けっ、かっこつけやがって」
「どうだ? 見つかりそうか?」
何故か憎々しげに大ちゃんが呟いていたが、今はそれどころではなく、さっそく吾輩は小次郎に尋ねてみる。上から見たしなやかな三色の肢体は、その筋肉の付き具合を如実に示しており、いつ見ても惚れ惚れするような身体であることが窺える。
「いや、それが――む? なにやつ!」
不意に毛を逆立て、吾輩らからは丁度溝の蓋により見えない位置を睨みながら小次郎が押し殺した声で威嚇した。
「チュウッ!」
「ちゅう?」
その時である。吾輩ら猫の食欲をそそる声が聞こえてきたのは。
「ねずみか! ねずみがそこにいるのか!?」
「拙者の獲物だ!」
声を吾輩と同じく聞きつけたらしい、食いしん坊の権化たる大ちゃんが息を荒げた。それに反論するかのように小次郎も息を荒げた。
しかし一向にこちらからは中の様子が窺えず、吾輩はやきもちした気持ちに駆られる。
「くっ……狭くて上手く身動きがとれぬ――――あっ、待て!」
無理やり俊敏に動こうとしたらしい。鈍い音とともに小さな苦痛の声が、溝の中から聞こえてきた。どうやらねずみは奥へと逃げて行ってしまったらしい。ごくりと名残惜しく唾を呑みこむ。残念でならない。
「だ、大丈夫ですの小次郎さま!」
誰よりも慌てた感じでマロンが声を荒げた。ひょっとしたら三匹の中でこれが一番声が大きかったかも知れぬ。
「なに、まったく問題ないでござるよマロン殿。心配して頂き忝い」
あははは、と苦笑じみた笑みを浮かべた小次郎が、溝の中から吾輩らを見上げてきた。
「ところでミーナ殿」
「ん?」
「探し物をもうちょっと具体的に教えてくはくれまいだろうか?」
「……うむ」
「…………忝い」
しばし吾輩らの間に無言が流れる。ごほん。気を取り直し吾輩は言う。
「指輪というものらしく、金色の輪っかという形状をしている。丁度輪郭だけの満月に」「なに!」
びっくりして吾輩は言葉を切る。吾輩が話している途中にもの凄い勢いで小次郎が仰け反り、思いっきり絶句したからである。小次郎は比較的冷静な奴であるため、ここまでの反応は大変珍しい。そんなことを冷静な頭が思った。
「どうした?」
「先ほどの鼠がそれらしきものを咥えて逃亡したでござるよ!」
「なにぃ!!」
そして今度は吾輩が大きく仰け反り、思いっきり絶句する番であった。