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7:吾輩と恐怖と紅蓮の悪魔


 吾輩はすぐさま駆けだした。吾輩の後ろの小次郎、マロン、そして先ほど走ってきた大ちゃんも同じように全速力で駆けている。

 吾輩らは大ちゃんから話を聞くなり駆けだしたのである。

『千代ばあの家から突然火が上がったんだ!』

 大ちゃんは滝のように汗を全身から噴き出していたが、それらをまったく気にした様子もなく鬼気迫る表情でそう告げたのである。戦慄が吾輩を襲い、背筋が凍る。

「あの方角には千代子さんの家が!」

「なんだって!」

 上でご主人らも気がついたようで叫び声を上げた。

 そして二人とも駆けだした。

「いくぞ!」

 吾輩をそれだけ言って駆けだした。他の三匹も同様に駆けだしたのを感じた。

 吾輩は焦っていた。

 一体全体突然何が起こった? わからぬ。まったくわからぬ。とにかく吾輩は恐怖に背中を押されるかのように全速力で走っているのである。怖い。恐怖。悪寒。とにかく訳もわからずかけている。後ろから獰猛な獣が追いかけて来るような気配すら感じる。くそっ。まだ千代ばあの家に辿り着かぬのか。この足が憎い。もっと早く。もっともっと早く。もっともっともっと早く! 遅い遅い遅い遅い!

 息も絶え絶えに吾輩は走った。吾輩の首元で吾輩の分身も焦ったように鳴いていた。あんなに清廉だったその音色は、もうすでにその記憶すら窺えぬほどに急いていた。そして目の前にやっと見慣れた曲がり角が現れる。あそこを左に曲がったすぐのところが千代ばあの家である。

 この辺まで来ると鼻を突く様な嫌な臭いもいっそう強くなった。鼻が麻痺しそうである。本能が告げる。帰れ。寄るな。近づくな。早々に立ち去れと吾輩をせっつく。それがどうした。吾輩は駆ける。後ろの三匹とともに駆ける。もうずいぶんとご主人たちを後ろに置いてきた。それでも吾輩は駆ける。駆ける。駆ける。もっと早く。もっともっと早く。もっともっともっと早く。ああこの速度がもどかしい!

 そして吾輩らは曲がり角を左へ曲がる。そこにはたくさんの人々がいた。うざったいくらいの人の群れ。邪魔だ邪魔だ。縫うように吾輩は人垣のすり抜けていく。そして目にする。


 轟々と燃え盛る深紅の炎。


 先ほどまであんなにものどかであった千代ばあの家が燃えていた。

 先ほどまであんなに居心地の良かった家が激しく燃え盛っていた。

 完全無欠に完膚なきまでに炎上していたのである。

 吾輩はその光景を目にして立ちすくんでいた。

 怖かったのである。

 轟々と燃え盛る火炎が。

 禍々とした黒煙が。

 千代ばあが住んでいたこの家が。

 怖かったのである。怖くて怖くて仕方がなかったのである。

 吾輩よりも少し遅れてきたマロンが息を呑む声が聞こえた。小次郎が悔しそうに唸る声が聞こえた。大ちゃんの絶望に打ちひしがれた声が聞こえた。しかし、吾輩の耳には何も聞こえなかった。残らなかった。

 とにかくこの目の前の光景が怖かったのである。

 もう思考がまとまらない。何を考えているのかすらわからない。この中に千代ばあがいる? そんな馬鹿な話があるものか。あってなるものか。なあ、そうであろう大ちゃん? 先ほどのあれは嘘なのであろう? これは現実ではないのであろう? 本当は燃えてなんかいないのであろう? 千代ばあの家は今もなおここにあって、吾輩らが入るとあの優しい笑顔が迎えてくれるのであろう? なあ、誰でも構わぬ。これが嘘だと言ってくれよなあ?

「ちょっと、そこを退いてください!」

 不意にそんな声が近くて遠いところから聞こえてきた。

「何があったんですかっ!?」

「放火だってよ!」

「放火!?」

「あの、ここに住んでいるお婆ちゃんは!?」

「まだ出てきていないんだってさ」

「じゃ、じゃあ千代子さんはまだあの中なんですね!?」

「消防車は!?」

「それがここら辺は古いから道が乱雑な上に、通りが細くてなかなか到着出来ないらしいって、さっきそんなことが聞こえたぞ」

「そんな!?」

 そんな焦ったような会話。吾輩のよく知る人間が声を荒げて話しているようにも聞こえたし、そうじゃないようにも聞こえた。ただ、何かに絶句したような空気だけは感じ取った。

 さらに炎はその勢いを増し、さらにさらにもっと激しく燃えだした。強烈な、この寒空を覆い尽くすかのような熱が吾輩の髭をちりちりと燃やす。

「おい! このままだと隣の家にも飛び移るぞ!」

 誰かが頭上で慌てたように叫んだ。うるさい。

「ど、どうしましょうミーナさん!」

 隣でも誰かが慌てたように叫んでいた。黙れ。

「くそ、このままでは家が完全に燃え落ちてしまうでござる!」

 さらに隣で誰かが歯を噛みしめるように唸っていた。煩い。

「千代ばあは!? 千代ばあはまだ出てきてねえのか!?」

 そのさらに隣で誰かが悲痛な声で叫んでいた。だからその口を閉じてろ!

 吾輩は何やらわけのわからぬ怒りの炎に、この身を焦がしそうになっていた。冷たい戦慄と燃えるような憎悪が駆け巡る。吾輩は唸る。唸り声を上げる。がたがた震え、今にもこの場から逃げ出したいと後ろに逃走を図ろうとするこの身体を叱りつけ、吾輩は唸った。

誰の仕業だ? 一体誰がこんなこと? 許さぬ。許さぬぞ。

 しかし、それよりも――


 ――吾輩には何もできない。


 それがたまらなく悔しくて許せなかった。この黒く小さな身体では、何もできない。それどころか今にも逃げ出したくてたまらないのである。それが悔しい。この場から逃げ出すことを切望している吾輩が許せない。

 千代ばあの柔らかく暖かな笑顔が脳裏を過ぎる。


 吾輩はこのまま何にも出来ないのか――


「ちょっと失礼します!」

 その時ひときわ大きな叫び声が上がった。続けざまに、ざばざばびしゃりという音が続けざまに聞こえ、そして周りの人々の怒声に似た声と悲鳴とどよめきが伝わってきた。

 吾輩はそちらの方へ振り返った。そこには、厚着を脱ぎ捨て全身びしょ濡れのご主人の姿が。

「ま、真人さん?」

「ちょっと美咲さん。ここで待っていてください」

「ちょ、ちょっと真人さんどこへ!?」

 そしてご主人は不意に――否、勇猛果敢に目の前の業火の中へ全速力で駆けだしたのである。美咲の悲鳴じみた声が寒空に響く。ご主人は燃え盛る千代ばあの家へ飛び込んで行った。その瞬間、まるで無謀な挑戦者をあざ笑うかのように紅蓮の悪魔が、さらにその熱量を上昇させた。

「真人さん!」

 美咲の悲痛すぎる切羽詰まった悲鳴が寒空を貫いた。

 吾輩は今しがた目の前で起こった光景に白黒させていた。一体、何が吾輩の目の前で起こったのか、全然理解が追いつかない。

 何が起こった? ご主人が飛び込んだのである。どこに? この燃え盛る千代ばあの家に? 何故? 何をしに? 千代ばあを救うためにか?

「ミーナさん! あなたのご主人が!」

「うるさい! そんなことはわかっている!」

 ミーナの声に思わず怒鳴り返す。わかっているのに理解が追いつかぬ。否、理解することが出来ないのである。この双眸に映るすべての光景が理解できないのである。

 燃え盛る千代ばあの家。そこから出てきていないという千代ばあ。飛び込んで行ったご主人。

「一体これはどういうことあのだっ!?」

 もうたくさんだ。さっきまであんなに穏やかだったというのに、一体何がどうなってしまったというのだ? 吾輩は一体どこで何を間違えたと言うのだ? もうわからぬ。もうたくさんだ。

「しっかりなされよミーナ殿!」

 その時ひと際凛とした怒号が、吾輩の芯を貫いた。吾輩の中心が打ちひしがれたように激しく振動する。振り返り怒号の主を探すと、そこには悠々とした表情の小次郎がいた。

「ミーナ殿が取り乱してどうする! 気をしっかり持たれよ!」

 再びの怒号に吾輩ははっとする。そうだ。吾輩は一体何を考えているのだ。しっかりしろ。

「……すまぬ、小次郎」

 顔を俯かせて噛みしめる様に言う。

「吾輩はどうかしていたようだ」

 そう言うと、少し小次郎はほっとしたような表情を浮かべたが、すぐさまその顔を引き締める。

「今は落ち込む時ではないでござる。ミーナ殿が今すべきことは、千代ばあとミーナ殿の主人殿が無事に帰還することを全身全霊で祈ることだ」

「……うむ」

 吾輩は頷く。

「うむ、そうだな」

 噛みしめるように再度頷く。

吾輩は目の前の燃え盛る千代ばあの家から一度視線を外し、吾輩は強く両目を瞑る。

 未だご主人と千代ばあの姿は見えない。どうか、無事であって欲しい。吾輩はご主人と初めて会った雪の夜に願った神様に再度願う。どうか、ご主人と千代ばあを無事に還してください。

 その時、人々の悲鳴が上がった。

 慌てて目を見開くと、さらに先ほどよりも炎が轟々と音を立てて千代ばあの家を食らっていた。黒煙が禍々しく寒空を染め上げて行く。大変耳障りな音とともに千代ばあの家が壊れ始める。倒壊が始まったようである。

「ああ、真人さん……千代子さん……」

 美咲は悲痛な表情と声のまま、目を思いっきり強く瞑り、両手で互いの手を今にも握り潰さんばかりに握りしめていた。

 隣では、吾輩の仲間たちも同じような表情で千代ばあとご主人の身を案じて祈っていた。

 吾輩も再び目を閉じ、先ほどよりも強く神様にご主人と千代ばあの身を祈った。強く、強く、何よりも誰よりも強く祈った。願った。どうか、どうか。千代ばあを無事に還してください。どうか、どうか。ご主人を無事に還してください。お願いします。どうか。吾輩らの平穏な日常を奪わないでください。

 めきめきめきといういっそう嫌な音が辺りに大きく鳴り響いた。人々がどよめき、美咲が悲鳴を上げた。


 突如二階の窓が割れて、そこから黒い影が飛び出してきた。


 黒い影は、もうひとつの抱きかかえるように内に抱いている黒い影を庇うように、鈍い落下音とともに地面へと降り立った。

 吾輩が見間違うはずがない。真っ黒で煤に塗れたご主人と千代ばあであった。二人は立ち上がるなり、燃え盛る炎から逃げるようにこちらへ駆けだしてきた。

「真人さん! 千代子さん!」

 涙声の美咲が二人に向かって叫んだ。それにご主人が笑顔で手を振り、千代ばあがまたあの柔らかく暖かい笑顔で答えた。

 次の瞬間、千代ばあの家が燃え盛る悪魔に食らい尽くされ荒らされ尽くされ、そしてついに轟音とともに倒壊したのである。


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