5:吾輩と殿下と最後の仲間
「クリスマスケーキを買ってきてくれませんか?」
「はい? あの、クリスマスケーキなら私がご用意しても構わないと、前におっしゃられていませんでしたっけ?」
「いえ、ふと思いまして。年寄りの気まぐれですよ。美咲さんのケーキはすごくおいしいんですけど、何故か今年は市販のケーキが食べたくなりましてね。申し訳ありませんが、ちょっと買ってきてくださいませんか?」
「……はぁ」
「あっ、どうせなら美咲さんの彼氏さんのお店がいいですね」
「は?」
「ケーキはお任せしますから、おいしそうなものをお願いしますね。はい、これお金です」
「ちょっ、ちょっと千代子さん」
「ああ、おつりは取っといてくださって構いませんよ」
「いえ、そうではなく!」
「頼みましたよ、美咲さん。それと、多少道草も大丈夫ですからね」
「千代子さん!」
そんな経緯を経て、吾輩、美咲、マロンは千代ばあの家を追い出されていた。もっとも、追い出されたのは美咲であって、吾輩とマロンは別にそんなわけではないのだが、それでも吾輩らは美咲の少し後ろをついて歩くように千代ばあの家を後にしたのである。
「どうしよう……」
これで通算十二回目になるため息をつきながら、美咲はとぼとぼと吾輩らの前を歩いていた。その足取りは、見るからに重い。しかし、反面とても軽そうである。先ほどまで、忘れていたことをぷりぷり怒っていたマロン曰く、あれは本当は今にも駆けだしたいのにそれをぐっと堪えているから、とのことであった。しかし、吾輩にはその意味を測りかねた。それをマロンに言うと、彼女はひどく呆れた顔で吾輩を、むしろどこか憐れむようで見てきたのである。何故そんな顔で、そんな目で吾輩を見てきたのであろうか?
前を行く美咲の足取りは、やはり重そうであった。見上げると、綺麗な眉を顰めうんうん唸っているようにも見えた。吾輩はそんな美咲が心配でならない。
「なあ、マロン。やはり美咲は大丈夫なのであろうか?」
「だから何も問題ないと言っているでしょ! まったく、あなたのそのとぼけたところは見ていていらいらしますわねっ!」
「……なんだか知らんが、すまぬ」
「まったく、あなたのその足りないところ、早く直してくださらないかしら?」
「……善処しよう」
ふんっ、とマロンは再び前を向いてしまった。
また怒られてしまった。一体、吾輩には何が足りないというのだろうか? わからぬ。皆目見当がつかない。つかないが、つかないなりに努力だけはしてみようと思った。どんな努力はわからぬが。
ふと前を行く美咲の足が止まっていることに気づき、吾輩らも足を止める。美咲は、前方をじっと凝視していた。
美咲の視線をたどり、吾輩もそちらの方を見やる。
まず見えたのはちょっとした人だかりであった。奥に建物らしき物も見えたが、いかんせん吾輩らの視線は低く、よくわからなかった。その人だかりは群れをなし列をなし、離れて行く人々の手には様々な大きさの手提げ袋が握られていた。
吾輩は首を傾げ、マロンの方を見やる。
「あれは?」
「さあ? 皆さま方、何やら嬉しそうな、幸せそうなお顔をされていますけど」
二匹で言い合いながら、不思議だなと首を捻る。すると、美咲は意を決したように「よしっ!」と一言呟き、今度は先ほどまでとは打って変わり力強い力で歩き始めた。それを慌てて吾輩らは追いかける。
「一体、どうしたと言うのであろう?」
「ああ、なるほど」
呟くように吾輩の口から疑問が零れると、何やら横でマロンがふにゃりと会心を得たとばかりにほほ笑んだ。何がわかったのかと尋ねようとした矢先、前から吾輩のよく知る声が聞こえてきた。吾輩はつい美咲たちを置いて走り出してしまった。後ろからマロンの声が聞こえたが、しかし吾輩には届かなかった。首元の鈴がせっつくように鳴る。
「メリークリスマス」
ちょっとした人だかりを避ける様に横に回り込むと、そこには人々に何やら箱を手渡しているご主人の姿があった。家にいるときとは打って変わり、全身真っ白な出で立ちのご主人は、すごく満足そうな顔をして人々に箱を渡していた。
後ろから吾輩を追いかけて来たマロンの声を聞きながら、吾輩はついご主人に声をかけてしまう。
「ん? ミーナ、お前どうしてこんなとこにいんだよ? ――と。はいどうぞ。メリークリスマス」
ご主人はすぐに吾輩に気付いた。ご主人は少し目を丸くして吾輩らを見やった。それがたまらず吾輩はまた鳴く。後ろからマロンの呆れたようなため息が聞こえてきた。
ご主人は吾輩らを気にかけていたようだが、それでも流れるような動作で人々に何かを受け取ってはお返しとばかりに箱を渡していく。吾輩らを多くの人々が興味深そうに見つめていたが、吾輩には全然気にならなかった。外でご主人を見かけられた今、吾輩はそれだけで満足だったのである。
「こらこらミーナ。そんなところで足を止めるな。お客さんの邪魔だろ」
目の前の客が一区切りついたのか、ご主人はそう言いつつ振り返り吾輩らを見た。
いかん、怒られてしまった。どうしよう?
「ごめんなさい、真人さん。私の後について来ちゃって」
「あうわっ!? み、美咲さん! ど、どうしてここに!」
そんな吾輩に救いの手が差し伸べられたかのようである。
いつの間にか、しかし少しもじもじとした様子の美咲がご主人の前に経っていたのである。丁度先ほどまでご主人の前が開いていたため、その隙に入ったのであろう。
しかし、ご主人に声をかけられた美咲は何となく浮かない顔していた。
「……そんな幽霊にでもあったような顔されたら流石に傷つきます」
「あっ、その、すみません」
「冗談です」
そう言って美咲にはにっこりとほほ笑んだ。邪気の感じられない笑顔だった。
……これは先ほどの腹いせなのだろうか? 吾輩は思考を停止する。
「おっ、真人のねえちゃんじゃねえか」
その時、ご主人の横から、そんな野太い声が聞こえてきた。
「あ、店長」
「須藤さん、こんにちは」
「おう。相変わらず美咲ちゃんは可愛いね」
現れたのは、ご主人よりも頭二つ分ほど高く、なおかつ幅も倍以上大きな大男であった。ご主人と同じ白い服を着ているにはいるのだが、その服は耐えきれず内に秘めている筋肉により今にも引き千切れそうである。顔も実に濃い。なんであろうか、この濃さは。ご主人の十倍は濃い顔をしている。髪の一切生えていない頭部。全体に大きく深い顔つき。大きな口。黒くもじゃもじゃとした大層な髭が口元を覆っている。一見、真っ黒に染めた眼鏡で目を隠しているため目を見ることはなく安心できるかと思いきや、目がよく見えないことによりいっそう威圧感を覚える。年はおよそ四十そこらといった感じであろうか。美咲にかけた声も随分のがっちりとしており、ご主人の声とは全然違った。豪快に笑う声も表情も、全然ご主人とは違う。なんだろう、これは。カッコイイ。そうか、これを渋いというのか。素晴らしい。よし、これから彼のことは殿下とおよびしよう。
「こっ、怖い方ですわね。出来ればお近づきなりたくありませんわ」
「そうか? 吾輩はカッコイイと思うのだが」
「…………」
マロンがいきなり後ずり始めた。三歩ほど下がった今なお、なんとなく腰が引けているように見える。
「どうした?」
「い、いえ……別に……」
「そうか。変な奴だな」
「……そっくりそのままお返しいたしますわ」
さらにもう一歩ほどマロンは吾輩から後ずさった。流石に傷つくというものである。
また上から豪快に笑う声が聞こえ、吾輩は急いでそちらに視線を戻す。
「よう、こんなとこへ一体どうしたんだ? ひょっとして真人に会いに来たのか?」
「ちっ、違いますよ! もう全然まったくこれっぽっちも微塵も一片の欠片ですらそんなことはありませんよ! 仕事です仕事! ちょっとした頼まれごとで!」
「ははは、そうかそうか。で、何を頼まれたんだい?」
「クリスマスケーキをひとつ頂こうかと」
「おう、そうかそうか。毎度あり。やっぱり真人が焼いた奴がいいか?」
「いいえいいえまったくその必要はありませんよ。それ、まったく同じことを千代子さんにも言われましたけどもうむしろ真人さんのケーキは食べ飽きるほど食べさせて頂いているのでもむしろもうお腹いっぱい? 味覚えちゃった感じ? で全然違う方が焼いた物で全然構いませんよ! ていうかその方がいいです」
「おう。ははは、そうかそうか。そりゃ助かる。もうどれが誰が焼いたのかさっぱりわからなくてな。まあ、誰が作ろうがこの『甘夢城』店長、須藤勇雄の目が黒いうちゃぁ、ぜってぇ不味い食いもんを客に出しゃしねえぜ」
「はい! このお店のケーキはどれもおいしくて可愛いって評判なんですよ」
「そうかそうか。そりゃあありがてぇ。今度その女の子たちと一緒に来な。サービスしとくぜ」
「はい! ありがとうございます!」
「――ところで美咲ちゃん。さっきからそこでボロクズみてえな野郎がひとりいるんだが」
「うわああああ! ちょ、真人さん! しっかりしてください!」
「……ごめん、美咲さん……ほんと……なんかごめんなさい……」
豪快に笑う殿下、灰色で今にも砕けそうなご主人、そんな粉々になったご主人に慌てて声をかけている美咲。
ふむ。
「なんだろうな、これは?」
「さあ? ただもうお腹いっぱいと言った感じなのは確かですわ」
「お腹いっぱいだと? 何故? 吾輩らはまだ何も口にしておらんぞ?」
「ああ、はいはいそうでしたわねそうでしたわね」
そんな会話をマロンと繰り広げつつ、未だに他の人の目を憚ることなく繰り広げられている目の前の光景を眺めている吾輩たち。マロンの言葉と言い、まったくわからぬ。
「おおっ、主らは!」
そんなこんなしていると、吾輩の丁度背後からよく聞きなれた声が聞こえてきた。マロンが閃光と見紛う速さで背後へ振り返り、それを追いかける様に吾輩も背後へ振り返る。
そこには、一匹の三毛猫が凛々しくあった。すらりとした肢体。痛々しいまでに全身に怪我の跡があり、その凛々しい顔の右目にはひときわ目立つ大きな傷がある。意志の強さが滲み出ている琥珀の瞳に、吾輩とマロンが映し出されていた。
「ミーナ殿も……マロン殿も。まったく珍しいところで出くわしたでござるな。これより遅そばせながら、千代ばあの屋敷まで馳せ参じようと急いでおったところでの。こんなところでいかがなされた?」
しっかりと芯の強い声で、吾輩らのもとへ隙なく近寄って来る三毛猫。吾輩ら最後の仲間、小次郎である。
「き、奇遇ですわねっ。こ、小次郎さまこそ、このような場所でどうなされたのです?」
吾輩が口を開くよりも先に、上ずったような少し甲高い声をマロンが出す。マロンの方を見ると、さっきまでとは打って変わり身体もかっちかちであった。突然どうしたのであろうか?
「いやなに。拙者、少々野暮用を老師に頼まれておってな。もう片付いてしまったが」
「そ、そうですの」
「主らは何故このような場所に?」
「ああ、それはな。そこにいる美咲を追いかけてきたらここに来てしまったというわけだ」
吾輩も会話に加わるべく声をかける。横でむっとしたようなマロンの声が聞こえてきた。小次郎も何故かたじろいでいた。
「さ、左様か、ミーナ殿。…………ん? そう言えばあのドラム缶がいないが、どうしたのだ?」
「……あ」
「……ふむ」
小次郎の問いかけに吾輩とマロンは同時に何とも形容しがたい顔で互いに向き合う。
ドラム缶とは、ケンカするほど仲が良いという見本そのものとばかりに小次郎とにらみ合っている身体も大きければ他の色々なところも大きなドラネコ、つまりは大ちゃんを小次郎が差す言葉なのだが――
「……忘れておったな」
「……忘れてましたわね」
大ちゃんは未だあの時走り去ってから姿を見せてはいなかった。吾輩としたことが。先ほど反省したばかりだと言うのに情けない。今どこで何をしているのか皆目見当もつかぬ。いや、ひょっとしたらもう千代ばあの家に戻って今頃あの特等席に座っているかもしれない。そうであって欲しいと思う吾輩はいけない奴なのであろうか?
「ほう、左様か。それは愉快愉快。――――つまり、邪魔者はいないと――――いやあ、ほんとに愉快愉快。あっはっはっは」
うんうん、とまるで独り言のように小次郎は繰り返す。途中、微妙に聞き取れないほど小さく何かを呟いたようなのだが……はて? なんと言ったのであろう?
吾輩が首を傾げると首元の鈴がちりんと転がった。
「むむっ! そ、その首元にあるのはっ!」
鈴の音が聞こえたのか、小次郎がもの凄い勢いで吾輩を見る。また横でマロンのむっとしたような視線を感じる。
「み、ミーナ殿。その首にかかっているのはもしや……」
「うむ。ご主人に今朝方頂いたのだ」
尋ねるような小次郎に、吾輩は得意になってそう答えた。みんなに気がついてもらえるというのは、こんなにも嬉しいものなのだな。やはり誇らしい。
「な、なるほどでござる。左様でござったか。――――そ、その……ととととても、かかかか――――」
しかし。
吾輩はふと思い出す。小次郎はこの首輪を嫌っていたという事を。理由はわからぬが、以前吾輩ら三匹の首に嵌まっている首輪を見てそう言っていたことがあったのである。その時吾輩はその理由を尋ねたのが、結局はぐらかされてしまったままである。
そんなわけで、小次郎は唯一吾輩らの中で首輪をしてはいない。かと言って吾輩らのようにご主人がおり、一応お寺で寝泊りをしているとのことを以前聞いたことがある。あ、そう言えば小次郎はその時そのご主人の事を「恩人であって主人なのではない」と言っておったな。
それはともかくである。理由は一向にわからぬが小次郎はこの首輪と言う物をどこか憎んでいる節があるのは確かな事なのである。そんな小次郎に嬉しそうに首輪の事を報告するとは――
「……すまぬ、小次郎」
「――かわい、いッ!? いっ、いきなりどうなされたのだ!?」
「いやなに……ともかく謝りたくなってな」
「そ、そうでござるか……」
「あ、あの、小次郎さま!」
突然割り込むようにマロンが声を上げた。何事かと顔を向けると、吾輩には微妙に怒ったような顔を、小次郎には微妙にもじもじとした顔を、といった具合の何とも不思議な顔をしていた。器用な奴である。
「その、あの――」
「――おら、真人! てめえ次期店長候補なんだからしゃきっとしやがれや。休憩にしてやっから美咲ちゃんを送って来い!」
マロンが何やら口を開こうとしたその時。吾輩ら三匹の全身の毛が逆立つほど気合の入った声が、突如吾輩らの後方より聞こえてきたのである。
振り返ると殿下と美咲と、それから白い服の上に今朝方家を出る際にご主人が着て行った分厚い服を羽織っているご主人の姿があった。
背中を叩かれたのか、痛そうな顔でご主人は背中をさすっていた。
「わかりましたよ。……イテテ。それじゃあ、店長。ちょっくら美咲さんを送ってきますね」
「では、須藤さんまた」
「おう! 美咲ちゃんも気をつけてな」
そして殿下に見送られるようにしてご主人と、殿下に一度、ぺこりと頭を下げた美咲が歩き始めた。
ふむ。
「付いて行くか」
「……あなたって、本当にご主人さまが好きね」
「うむ。この世で一番誰よりも何よりも大好きだ」
「そ、そんな……拙者に付け入る隙はないのか……」
何故か顔全体に哀愁を漂わせ始めた小次郎がいたが、しかし、ご主人と外を一緒に歩ける機会。そうやすやすと不意にしたくない。後ろでマロンが小次郎に必死といった感じで声をかけていることだし、吾輩は必要あるまい。さて、後に一緒についていくか。
「二人とも、式の報告と子供の報告はちゃんと必ずするんだぞ!」
あっ、ご主人と美咲が同時にこけた。
「てっ、店長!」
「須藤さん!」
ご主人と美咲の声は重なり、寒空をほんのりと温めた。