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4:吾輩と美咲と震える身体

千代子ちよこさん、またミーちゃんたちがいらしてるんですか?」

 その声に、吾輩ら三匹は一斉に声の主の方へ顔を向ける。

 吾輩のよく知る顔がもう一つ、両手に盆を持ちながら緩やかに縁側へと近づいて来ていた。挨拶代わりに吾輩が率先して鳴くと、声の主はにっこりと芯の強さが窺える、波立たぬ湖畔のような笑みをたたえた。安心できて、後ろを緩やかに支え押してくれそうな笑顔だった。

「そうなんですよ。こんなに寒いのにねえ。だから嬉しくって」

 千代ばあは膝に乗せたマロンを労わるかのように、ゆったりとその背を撫でつけながら答える。その膝の上では、マロンが蕩けそうな顔で、どこか優越感に浸ったような表情のまま、下で悔しそうに毛を逆立てている大ちゃんを見ていた。

 千代ばあから頂いた馳走をおいしく平らげた後、しばしば吾輩らは誰が千代ばあの膝の上に乗るかで揉めていた。

吾輩らにとって、千代ばあの膝上はまさに特等席。その安らぎとったら形容、筆舌ともにし難く、すでに生涯の友とも言える吾輩ら四匹であったとしても、こればっかりは凌ぎを削り闘わねばならなかったのである。

 しかし、吾輩は今日の闘いには参加せずにいた。これまで吾輩ばかりが千代ばあに撫でられていたので、これはそれを差し引いての譲歩であった。もっとも、どこか恨めしげな視線二つに、この闘いに参戦してしまうと吾輩がどうなってしまうのか分かったものではない、という危惧もあったのだが。この時ばかりは見境がなくなりかける吾輩らであった。そういう訳で、吾輩は声の主が現れるまでごろごろとまどころんでいたのである。

「今日はとてもお寒いですから、ほどほどになさってくださいね」

 千代ばあの答えに、本当に心配をに滲ませながら、先ほど現れた美咲みさきは千代ばあの隣へ腰を下ろす。それから持ってきた盆から急須を取り出すと、一緒に持ってきたのであろう湯呑みの中へ吾輩空とすれば目を覆いたくなるほど熱そうなお茶を注いだ。その際、地獄から湧き上がるかの如く湯気が白く立った。入れ終わると、美咲はそれを千代ばあに差し出した。

「これ、温かいお茶です」

「ありがとございます」

 千代ばあはゆっくりと笑みを崩さないまま答え、マロンから手を退けて壊れものを包むようにそれを受け取った。その際、マロンが結構寂しいそうな表情を見せたのは御愛嬌である。

「美咲さん、いつもいつもすみません」

 お茶を一杯啜ると、千代ばあはそう言った。

「今日くらい、お仕事休んでもよかったんですよ」

「そんなことできませんよ」

 そう言うと、自分でいれたお茶を美咲はゆっくりと一口啜った。それからにっこりと笑うと、「それに、私は千代子さんにもお会いしたかったですし」と嘘偽りの感じられない声で言った。

「そうは言っても、今日はクリスマスでしょう? 美咲さんの恋人さんはなんと言ったかしら。クリスマスなんですから、どこかデートもでも行く予定とかはなかったの?」

真人まさとさんは――」

 そこで口を開いた美咲は、ほんの少しだけ固まったような仕草を見せる。しかし、すぐにそれでも少しだけ拗ねたような口調のまま平生へいぜいとそう変りなく続けた。

「真人さんは、今日は一日大変そうで、そんな時間もないみたいなんですよ」

「恋人さんはなんのお仕事をされているんでしたっけ?」

「パティシエですよ。まだ見習いに少し毛が生えた程度らしいのですが」

 それだけ言い、美咲はまた一口飲もうと口元へ湯呑みを運ぶ。

 この時、吾輩の目には千代ばあの目が鋭く光ったのを見た。まるで獲物を狩る猫のような、そんな目であった。

「でも、今日はこの後何かあるんでしょう? たとえば、大事な話があるとか」

 千代ばあの一言に、美咲はお茶を飲み損ない、声にならない声を出してからせき込んだ。それはもう平生の姿とはとても思えない、そんな慌てぶりであった。

 落ち着くと、どこかおどおどとした声色で美咲は千代ばあに尋ねた。

「ど、どうしてそんなこと言うんです?」

「だって今日美咲さん、どこか落ち着きがないんですもの。そりゃもう一発でわかりますよ」

 そう言うと、確信を得たような悪戯じみた笑顔で美咲を千代ばあは見た。

 対して美咲は耳まで真っ赤にして、しばらく息が詰まって声が出ないような様子であったが、肩を少し縮ませて、さっきとは打って変わって蚊の鳴く様な声で「やっぱり、わかりますか……?」と千代ばあに尋ねた。

「そりゃあ分かるわよ。お婆ちゃんをあまり舐めないことです。伊達に長生きはしてないものですよ」

「そ、そうですか……すみません」

 縮こまりながら言う美咲。完全に縮こまり、固まり、委縮してしながらも真っ赤なその顔は、何故かとても可愛いらしいと思ってしまった。

 吾輩は首を傾げる。美咲は、一体どうしたのであろうか? まったく平生の姿と異なる美咲の姿に、吾輩は戸惑いを隠せずに鳴いた。気付けば美咲に声をかけていたのである。何故だろうか?

 美咲はそんな吾輩を視界に、ほんのり潤んだような瞳に吾輩を映した。

「ミーちゃん」

 そして美咲は吾輩を呼ぶ。

「こっちにおいで」

 吾輩は美咲に、ご主人と同じく両前足の付け根をやんわりと抱かれ、美咲の膝もとへ運ばれる。美咲の膝は、ご主人と似てやはり温かかったが、いつもよりも少し固い気がした。

「あら? この首輪」

 首の鈴に気がついたらしい。美咲に首輪を触られる。

「そうか。今日はクリスマスですもんね。ミーちゃんよかったわね、凄く似合ってるわよ」

 首の下を撫でられ、嬉しく吾輩は鳴く。やった。褒められた。

 それが本当に嬉しくて、首元から聞こえてくる心地よい音色とともに吾輩はもう一度鳴いた。

 続けざまに美咲に頭を撫でられる。すごく心地よい。頭から首、首から背中へと、ゆったりと繰り返し繰り返す撫でなれる。

 たまらず、吾輩は蕩けたような、ゆるみきった声で鳴く。見上げると、美咲もにっこりとほほ笑んでくれた。いつの間にか、膝は固さが抜けていた。

 ふと、吾輩は何者かの視線を感じた。

 それに釣られるように視線を落とす。

 そこには、ひとり寒風の中佇んでいる大ちゃんの姿が。

「……いいなぁ」

 そんなことを大ちゃんは、吾輩とマロンを遠い目で見つめつつ呟いていた。その背はひどく哀愁漂っているように見えた。

「…………すまぬ」

 他に言葉が見つからず、そんなことを吾輩は言う。

 それだけではない。

 吾輩は、彼の存在を本気で忘れていたのである。今の今まで隣にいたのに、である。

「すまぬ、大ちゃん」

 言葉は寒風に乗り、空しく流れていった。

 そんな吾輩の言葉が聞こえたのか、虚ろながらも何か力を秘めた目で吾輩を見やり一言。

「へっ、き、気にすんじゃねえよ。オレ様、全然気にしてねえからさっ。ちょ、ちょっくら、そこら辺走ってくるわ」

 その言葉は、吾輩以上に空しく寒風に流されていった。大ちゃんはそれっきりどこへとも知れぬところへ駆けだして行った。吾輩はそんな後ろ姿を、そっと眺めていたのである。

「あら、ドラネコのあの子、どこか行っちゃいましたね」

 吾輩と同じく見ていたのか、千代ばあが美咲の隣で呟いた。

「誰にも構ってもらえなくなっちゃったからかしらねえ?」

 それはつっこんではならないところだと思ったのは吾輩だけか?

「今度はちゃんとお相手しなくちゃね」

 隣でまた千代ばあがそんなことを呟いていた。と、また楽しそうに皺くちゃな目をよりいっそう皺くちゃに細め、狩人の目をした千代ばあは美咲を見やった。

「それで? 今日は何があるのですか、美咲さん?」

 ぴくり、と再び美咲の膝が跳ねた。同時に呼応するかのように膝も再び固くなる。千代ばあから得も言われぬ力が発せられているのか、普段狩る側の吾輩も千代ばあの力に恐れおののく。これが先の者か。吾輩はまたひとつ知恵を得たが、しかしこんなものは得たくなかったというのが本心である。千代ばあの力に押されてか、背中にある美咲の手から冷や汗が出て来て、吾輩の背を気持ち悪く湿らせた。

 不意に、なんの前触れもなく美咲は両手を叩き、吾輩のことを忘れたかのような勢いで立ちあがった。突然のことで悲鳴を上げながら振り落とされる吾輩。危ないではないか美咲。

「そ、そう言えば私、お部屋のお掃除の途中でした! は、早く済ませてしまいませんと!」

 少し上ずったような声で美咲は捲し立てる様に言う。そしてすかさず、すたこらさっさと言わんばかりにこの場から立ち去――ろうとした。

 その逃避は、無情にも千代ばあが美咲の手を握ったことにより儚く散った。

「あら、そんなことは後でもいいのですよ、美咲さん」

 千代ばあは、縁側にゆったりと座ったままにっこりと人の良さそうな笑みを浮かべていた。

 しかし、吾輩は見ていたのである。千代ばあが美咲を捉まえるその瞬間を。あれはまさに蛇のごとき素早さであった。

 気がつけば、吾輩の身体は震えていた。

「ね?」

「……はい」

 すごすごと、観念したように美咲はまた千代ばあの隣に座る。すぐさま、吾輩は美咲の膝に飛び乗る。やはり美咲の膝は固かった。しかし、そんなことは今はどうでもよかったのである。

 美咲もすぐに吾輩の背を、心を落ち着けるようためか、先ほどよりもさらにゆったりとした動作で頭から背へと撫でた。

 この時の吾輩らは、まさに互いが互いを必要としていたのである。

 ちらりともう片方の美咲の手を見ると、そこには千代ばあの手が未だ握られていた。

「それで、今夜は何があるんですか?」

「あの、その……今夜」

 おどおどおずおずと言った感じで、少々どもりながらも美咲は口を開く。その隣では、いつもの二割増しといった感じの千代ばあの笑顔が。

「えっと、あの……みぎわ公園ってところで」

「はい、この季節、イルミネーションでいっぱいの綺麗なあの公園ですね」

「…………そ、その、公園のとあるところで」

「噴水の近くの大きなクリスマスツリーですね。あの、恋人たち御用達の」

「――ッ! ……そ、そこで今夜は待ち合わせをしていまして」

「何時くらいに?」

「…………夜の八時くらいに」

「どうして?」

「…………」

「どうして?」

「…………」

「どうしてなのかしら?」

「…………たっ、大切な話があるからっ……と」

 こういうのを最凶なメスの力と言うのだろうか。吾輩はがたがたと震え、じっとりとした美咲の手の平を感じながらそんなことを思った。首元のご主人も吾輩と一緒に震えたように転がっていた。見上げると、茹であがりそうな顔しながらも、何故か真っ青な美咲の顔がそこにあった。手の平と膝を通して伝わる震え。吾輩らは、互いを労わる様に一緒に震えていた。

「あらそうなんですか!」

 千代ばあが満面の笑みを浮かべながら、弾んだ声で美咲に言う。びくりと、美咲の身体が震えるのを感じたと思ったら、何かひどく脱力しきったような気配を吾輩は感じる。見ると、美咲の手を今の今まで握っていた千代ばあの手には、いつの間にか美咲が先ほど用意したお茶があった。

 千代ばあはゆっくりと幸せそうにそれを啜る。

「いいですねー」

 ふとまた視線を感じ、吾輩は千代ばあの顔の下を見やった。

 そこには、まさに腰が抜けたような顔のマロンが。

 心配になるほどがたがたと震えたまま、助けを求めるような目で吾輩を見ていた。

「…………すまぬ」

 そんなマロンに吾輩は、美咲の膝上からそれしか言えなかった。

 吾輩はどうやら、あまり周りが見えていないようである。



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