第三章(前)
皮肉にも、シンが、父が連れて来られた10歳になった年に、事件が起きる。ティンはまだ29歳だった。
シネマーには、17歳になる娘がいた。名をジェシカという。
シネマーは仕事柄なかなか家に帰ることが出来ないので、妻のエリゼとジェシカは森の中の家で二人暮らしのようなものだった。
ジェシカは褐色の長い髪を高い位置で結っていた。彼女が300メートルほど離れた所を家に向かって歩いていると、馬車が木々の間から飛び出した。御者はウイルコックスだった。
「乗ってくれ」
ウイルコックスが唐突に言った。ジェシカは後ずさりした。彼女は、ウイルコックスがかつてのシャナ王子の忠臣であり、突然姿を消したことを知らなかった。
「頼む。無理強いするつもりもないし、君を拘束するつもりもない。ただ、俺たちの野望には、どうしても君が必要なんだ。君にここにいてもらっては困るのだ」
ウイルコックスは精悍な顔つきで真っすぐにジェシカを見詰めている。ジェシカはその瞳に吸い込まれるような錯覚を覚えた。
「お願いだ。君や君の家族を悪いようにはしない。危害は加えない。本当に、君をどうこうする気はない。付いてきてくれるだけでいい」
甘いマスクで囁き、下心がある奴はごまんといる。だけど、ウイルコックスは違う気がした。
「乗ってくれないか。ジェシカ」
初めて名前を呼ばれた。ジェシカは心地よさを覚えた。
「この人は信頼できる」と、彼女は思ってしまった。音を立てずに、静かにジェシカは馬車に乗り込む。ウイルコックスは振り返り、彼女が中のいすに座ったことを確かめると、満足げに馬車を走らせた。
エリゼは果物屋に勤めているので、日が暮れてから帰ってくることが多い。その日もそうだった。
エリゼは異変に気が付いた。家に明かりがついていなかったのである。急ぎ足で、扉に手をかけると、隙間に紙が挟んであるのがわかった。広げてみた。
『娘は我々が保護している』
殴り書きで、そう記されていた。エリゼの手はわなわなと震え出した。エリゼは扉を開き、中に娘がいないのを確認すると、いてもたってもいられず、夫のいる城に向けて走り出した。




