9-4 Side C (終)
夜明けの気配。クロードは、横になっていた寝台から裸の上半身を持ち上げる。弾みで、安宿の寝台がギシリと軋んだ。咄嗟に、隣で眠る女性の顔を覗き込む。目覚める様子のない彼女の姿に安堵して、今度は先程までより慎重に寝台から下りた。
手早く身支度を整えたクロードが向かうのは宿屋の一階。レジーナが目覚めた時、全てが過不足なく揃っているように。彼女が必要とするであろうものを整えに、宿屋の厨房へと向かった。
「おや? お兄さん、もうお目覚めかい?」
厨房で忙しく立ち働いていた宿の女将が、クロードの姿を認めて声をかける。
「悪いね。見ての通り、朝食は今作っているところなんだ。もう少し、待ってておくれよ」
女将の言葉に、クロードは問題ないと首を振る。今、必要なのは別のものだった。
「……沸かした湯をもらえるだろうか?」
「ああ。お湯が欲しいのか。……ちょっと待ってなよ」
答えた女将は、大きな鍋に水を張り、それを火にかける。魔石によって起こされた火が、鍋の底をなめ始めた。その様子をじっと眺めるクロードに、朝食づくりを再開した女将がチラリと視線を向けてよこす。
「……あんた、ひょっとして、英雄クロードかい?」
何でもないようにそう尋ねられ、クロードは身を固くする。国境近くとは言え、隣国に入るにはあともう少し。ここで捕まるわけにはいかない。黙り込み、逃亡の算段をつけ始めたクロードに、女将は「ああ」と言って首を横に振る。
「別に、英雄様だと分かったところで、あんたをどうこうしようなんざ思っちゃいないよ。安心しな。……ただね」
言って、女将がクロードを真っすぐに見据える。
「あんたは覚えちゃいないだろうが、私は昔、あんたに命を助けられたことがある」
彼女の言葉に、クロードは「すまない」と答える。記憶にないと正直に告げると、女将は苦笑した。
「分かってるよ。あんたは、国中を救って回った英雄様だ。一々、救った相手の顔まで覚えてたら切りがないだろうからね」
再び、朝食の鍋に視線を戻した女将が呟く。
「……私は、あんたに感謝してるんだ」
「……」
「だから、あんたがこの国を裏切ったことを責めるつもりはないし、帝国に亡命したはずのあんたがなんでこんな場所に居るのか詮索するつもりもない」
最後に、「気にはなるけどね」と付け加えた女将が、天井を指さす。
「一緒にいるお嬢様は、あんたの良い人かい?」
その問いに一瞬迷った後、クロードは「そうだ」と小さく答える。その答えに、女将がやれやれと言わんばかりのため息をついた。
「だったら、もっと、しっかり見張ってないと駄目だよ」
「……」
「あんだけ綺麗なお嬢様なんだからさ。変な男に目をつけられたら厄介だろう? 昨日の夜だって、あんたが席を外した隙にちょっかい掛けられてたからねぇ」
女将の言葉に、クロードの指がピクリと反応した。
途端、不安になってくる。今、レジーナは部屋に一人。不審な気配はないが、万が一ということもある。
落ち着かない気分になったクロードに、女将が盥を手渡す。鍋から移したお湯でいっぱいのそれを受け取って、クロードは礼もそこそこに厨房を後にしようとした。
「指輪だよ!」
背後から掛けられた声に、クロードは振り向く。訳知り顔で頷く女将が、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「何はともあれ、指輪だよ。お嬢様の指に指輪を嵌めるのが一番だ」
婚姻の証、それをレジーナの指に嵌めろと言う女将の言葉に、クロードは反射で頷いた。そのまま今度こそ客室へと向かう。
階段を上りながら、クロードは先程よく考えもせずに頷いた女将の言葉を反芻する。その内、クロード自身も、それが一番良い考えなのではないかと思い始めた。
レジーナの眠る部屋へと戻り、部屋の隅に盥を置く。彼女が目覚める頃にはちょうどいい湯加減になっているだろう。
寝台に近づき、レジーナの寝顔を覗き込む。まだ、起きる気配のない彼女の右腕が、そのまろい肩ごと掛布からはみ出していた。寝台の端に腰を下ろしたクロードは、掛布を引き上げようとして、その手を止める。
掛布の上、投げ出された右手をそっと持ち上げ、白く細い指先に触れた。
(ここに……)
伴侶の証、揃いの指輪を嵌めることができれば、どれほど良いだろう。想像して、それだけで胸の内が熱くなったクロードは、レジーナの右手を掛布の中に戻す。
いつかきっと――
彼女の指に輝く光を夢想して、クロードは身を屈める。寝台の上、艶やかに広がる黒髪に、そっと唇で触れた。
(終)




