1-1 Side L
壇上から見下ろす光景、黒髪を高く結い上げたレジーナが深紅のドレスを翻して広間から出て行く姿を、リオネルは最後まで見送った。
(結局、レジーナは何も言わなかった、か……)
その事実がリオネルの胸に重く圧し掛かる。弁明の一つもせずに、意固地にリオネルを睨みつけていた赤い瞳が目に焼き付いて離れない。もう婚約者とは呼べない彼女の愚かさが、リオネルは憐れでならなかった。
(一体、いつからだろう……?)
いつから彼女はこんなにも変わってしまったのか。リオネルにはその答えが分からない。
元より、リオネルとレジーナの婚約は、プライセルとフォルストの結びつきを強めるためのもの。二人が十を数える前に結ばれた婚約に、政治的な思惑以上のものは存在しなかった。
(それでも、私はレジーナと共に歩んでいくつもりだった……)
幼いながらも互いの立場を理解していたリオネルとレジーナ。二人の仲は決して悪くはなかった。共に成長し、支え合う気心の知れた友として、リオネルはレジーナを慈しんできたのだ。
なのに――
「……リオネル?大丈夫?」
自身の右腕にそっと伸ばされた小さな手、リオネルは声の主に視線を向けた。リオネルを案じる黒の瞳、エリカの心遣いにリオネルの軋んだ心が慰められる。
「すまない、大丈夫だ。……ありがとう」
「ううん、いいの。リオネルが傷ついてるんじゃないかと思って」
そう答えたエリカが、フワリと笑った。その微笑みに、リオネルの心が締め付けられる。愛しい彼女がこの笑みを取り戻したことが、リオネルは何よりも嬉しかった。
(そうだ。私が守るべきはエリカなのだ。もう二度と彼女を傷つけさせはしない)
ここまで来るのに、リオネルにも様々な葛藤があった。
魔法学園入学と同時に友人となったエリカは、平民という出自故に、誰とでも気安く接し、直ぐに相手の懐に入り込んでしまうような性分だった。それを、レジーナのように毛嫌いする者もいるが、リオネルはそんな彼女を好ましいと思っている。
類まれな治癒魔法の使い手、本来なら驕り高ぶってもおかしくない力を、エリカは決して誇示しない。ただ、苦しむ者のため、分け隔てなくその力を使い、そして、力及ばぬ相手には涙する。そんな優しい心根の持ち主なのだ。
しかし、そんなエリカから、ある時を境に柔らかな微笑みが失われてしまった。明らかな陰りを見せ、それでも「大丈夫だ」と無理に笑うエリカ。彼女から笑顔を奪った張本人が自身の婚約者だと知った時のリオネルの絶望は深い。
そして、気が付いた。リオネルが本当に守りたいもの、何より大切だと想うのは、婚約者のレジーナではなく、エリカだと。
今、隣に立つエリカは、リオネルの好きな穏やかな笑みで笑っている。彼女が取り戻した明るさにリオネルが目を細めていると、不意に二人の間に割って入る声があった。
「リオネル、派手にやったな!」
「……フリッツ殿下」
この場における最高権力者、金の髪に碧い瞳を楽し気に煌めかせた男に名を呼ばれ、リオネルは僅かに腰を折って頭を下げる。フリッツ・ヴァイラント第二王子殿下。王国の王位継承権第二位を持つ尊き御身がこれほど気安くリオネルに声を掛けてくれるのも、二人の間にエリカと言う存在があるからだ。
フリッツは、エリカにも「良かったな」と声を掛ける。その横で二人を見守っていたフリッツの友人、辺境伯子息であるアロイス・クラッセンが、リオネルに厳しい視線を向けた。
「わざわざこのような、……見せ物のようにして婚約を破棄する必要があったのか?」
アロイスの白金に近い金の髪、下ろされた前髪がサラリと揺れる。その奥からリオネルを見据える菫色の瞳には、不審と僅かな苛立ちが宿っていた。リオネルは、アロイスの義憤を理解して頷く。
「確かに君の言う通り。私とて、出来ればこのような方法を取りたくはなかった」
「ならば……!」
リオネルの行いに対してこうして真向から苦言を呈してくれるアロイスに、リオネルは感謝していた。
「アロイス。私はエリカを守りたいんだ」
「どういう意味だ、リオネル?エリカを守るとは……?」
本来なら交わるはずのなかった彼との縁を繋いでくれたのもまた、エリカの存在だった。
「私は、エリカとの婚約を望んでいる」
「それは……!」
驚きに声を上げたアロイスの瞳を真っすぐに見つめ、リオネルは自身の覚悟を口にする。
「そのために、エリカの身分への蔑みや、能力へのやっかみ。それら全てを排すると決めた。今日のこれはそのための布石。『正義』が何処にあるかを、皆の前で明らかにしておきたかったんだ」
身分ある者が下位の者を虐げることは許さない。罪は罪、悪は悪であると
示すことで、今後、エリカに向けられる悪意をある程度、牽制することが出来るだろう。リオネルの描く未来図に未だ顔をしかめるアロイスに代わり、フリッツが二人の会話に口を挟んだ。
「エリカをフォルストの養女に入れるそうだな。それも、彼女を娶るためか?」
「はい」
「フン。よりによって、フォルストとはな……」
不満げなフリッツの表情に、リオネルも僅かに顔をしかめる。リオネルには、フリッツの言わんとすることが分かった。
悪名高きフォルスト。レジーナの生家であるフォルスト伯爵家は、その叙爵に至る過程を含め、成り上がりとして忌み嫌われている。かの家がエリカを養女にすることを望んだ時、リオネルは迷った。だが、フォルスト側がレジーナとの婚約破棄を受け入れる条件が、「聖女の再来」と呼ばれるエリカをフォルスト家から嫁がせるというものだったのだ。
フォルスト家と戦うこともできた。しかしそれは、自身の家であるプライセル侯爵家をもってしても長く掛かる戦い。レジーナをいつまでも婚約者として据えておくことが、リオネルにはどうしても耐えられなかった。
これ以上、エリカを悲しませたくない――
迷った末、リオネルはエリカに頭を下げ、フォルスト伯爵家へ養子に入ることを承知してもらった。
「……貴族家同士の利権が絡んでくるだろうからな。仕方がないと言えば仕方ないが」
フリッツは、リオネルの決断に一応の理解を示した。しかし、顔は不快気に歪んだまま「それでも俺は反対だ」と唸る。
「フォルストなど碌なものではないだろう?兄上も義姉上も、エリカの身を案じている」
フリッツが兄夫婦である王太子殿下と妃殿下の名を出したのは、リオネルに釘を刺すため。かつて、エリカに治癒魔法で命を救われた王太子殿下は、常に彼女を気にかけてくださっている。
「……エリカが幸せになれるなら、それでいいんじゃない?」
背後から聞こえた声にリオネルは振り返る。そこには、穏やかに笑う青年の姿があった。薄い茶色の髪に今は細められて色の見えない焦げ茶の瞳。朴訥とした雰囲気の彼がその見た目通りの人間でないことは、この場の誰もが知っている。
「シリルくん!」
青年の名を呼んだエリカに、次代の王国筆頭魔導師と呼ばれる男、シリルの笑みが深くなる。
「良かったね、エリカ。幸せになってね?」
「ありがとう、シリルくん!」
エリカがシリルに向ける親し気な笑みには、彼に対する愛情と信頼が感じられた。
魔法学園は実力主義とは言え、魔力を持つ者の多くが貴族籍にある。エリカとシリルは貴族中心の学園において、数少ない平民同士。かつては、二人の性別を超えた友情にリオネルが妬心を抱くこともあったが、エリカの想いが自分にあることを知る今、リオネルは二人を穏やかな思いで見守ることができる。
ふと、リオネルは自分が奇跡の中に在ることに気づいた。
目の前、確かな友情で結ばれたエリカとシリルの二人は平民で、彼らを見守るフリッツとアロイスは尊き血筋の王族と高位貴族。あり得るはずのない光景、しかし、そこにエリカが居るだけで、身分と言う枠組みを超えた新たな絆を結ぶことが出来る。
(やはり、エリカはすごいな……)
誰をも愛し、そして誰からも愛される存在。リオネルにとっても、エリカは憧れの対象であった。その彼女が、他の誰でもなく己の手を取り、己を唯一と認めてくれている。
(そうだ。この先なにがあろうと、彼女の手だけは離さない……!)
リオネルは、エリカの身を案じるフロイスに対して自身の決意を明かす。
「殿下、私には全てを守りきるだけの力はありません」
婚約者であったレジーナの道を正すことも、彼女を幸福に導くことも出来なかった。自身の無力を認めた上で示すのは、ただ一つの想い。
「ですから、私は本当に守りたい、たった一人を選びました」
その言葉に、エリカが「リオネル」と彼の名を呼ぶ。エリカを見下ろしたリオネルは、その細い肩、小さな身体を抱き寄せた。
「……守ってみせます、エリカだけは。何に替えても」
リオネルの誓いに、フリッツが片方の口角を上げてニヤリと笑った。
「その言葉、違えるなよ?」
「御意」
短く答えたリオネルに、フリッツは満足そうに頷いて返す。柔らかくなったフリッツの眼差しが、エリカに向けられた。
「リオネルが努力する限りは俺も手を貸す。エリカには、幸せになってもらいたいからな」
フリッツの温情に、リオネルは深々と頭を下げた。胸の内で、自身の誓いを繰り返す。
守ってみせる――
エリカの築いたこの光景ごと、彼女の幸せも何もかも。