解雇と新たなる命
「いい、ヘレン? イブリース様は婚約破棄をなさりたい。でも、まだ公国としては何もしてないのよ。彼が個人的に打診してきただけ。それも、婚約者同士の会話としてね。この手紙は単なる、私文書であって公文書じゃないの。だから、彼も通常の速達で送付してきたのよ」
「つまり、わたしたちの対応を相手は待っているということですか、お嬢様。しかし、それでは危険が迫った後に動くことになります」
「なら、危険が来る前に動けばいいじゃない?」
「お嬢様。何をお考えですか? このヘレンには、ろくでもないことを画策している、そんな気がしてなりませんが?」
アンリエッタはニヤリと悪戯っぽく笑った。
「動くことはないのよ。だって、破棄するかしないかは、わたしの決めることではないから」
「人間の習慣を利用するおつもりですか、お嬢様?」
「公国では男性が婚約を破棄するかどうするかを決められるけど、女にはそんな権利はないわ。人間の貴族社会はどこでもたいがい、そんなものよ。女には相続権も、異議申し立てもできないし、親の財産や夫の財産すら、貰えないんだから!」
なんて不合理な仕組みなのだろう。
アンリエッタは呆れたような顔をしながら、これを逆手にとれないかな。
そんなことを考えていた。
負け犬ならぬ、負け狼に待っているのは‥‥‥死、だからだ。
「いい、逃げたらあなたたちにも罪が待っているの。だからまず、あなたたちは帰国しなさい。これ、わたしの命令書ね。帰国して、おじい様がごちゃごちゃ文句つけたらこう言いなさい。孫の部下に対する侮辱は、わたしに敵対することを意味しますってね?」
「お一人で‥‥‥残られるおつもりですか? この危険な場所に?」
「どうしようかなって、考えているの。人間並みの力しかないけど、頬を引っぱたいてやりたいじゃない? 例えその後に殺されるとしても‥‥‥」
この人は、気高き狼の姫だ。その血がそうさせている。侍女長はそう感じた。
純血種であるヘレンですら、その意思に尊さを覚えたほどだ。
女としてではなく、信義を、仲間としての信頼を踏みにじったイブリースに、底知れない怒りの炎を宿した心で立ち向かおうとしている。勝ち目なんてなありはしないのに‥‥‥。
「せめて、誰か騎士だけでも。このままではお嬢様が、本当に死んでしまいます。陛下に殺されるよりひどい死に方をなさいますよ!」
「いいの‥‥‥。あなたたちはクビ、よ。いま、この時点でね?」
アンリエッタはにこやかに書類をヘレンに突き出した。
『永年の従事に感謝して、その労をねぎらうこととする。各員に褒賞を与えて、王国への帰参を命じる』
そこには、そう書かれていた。内容を見た侍女はうっすらと涙を浮かべて、アンリエッタを見上げている。
「お嬢様のお心遣いには感謝致します」
「いい、ヘレン? わたしはまだ公子妃補なの。ここで動くことは、誰だかわからない敵に対して‥‥‥いい口実を与えることになるわ。だから動けない」
「それは私共が帰国しても同じ事では‥‥‥?」
「いいじゃない。敵をあぶり出すには丁度いいわ。命令よ、ヘレン。王国に戻りなさい‥‥‥そして、間に合うなら助けに来て」
「それは叶うかどうか‥‥‥。国王陛下が兵をお出しになれば‥‥‥同盟は破棄になり、公国はお嬢様に刃を正式に向けるでしょう」
そっか、とアンリエッタはなんとなく理解した。
これは、おじい様が動けないのも見越しての婚約破棄かもしれない。誰の計画かなと考えた。
イブリースはこんな簡単な引き算足し算もできない男性だったかしら? どちらに動いても、公国は帝国か王国か。 もしくは、すぐ隣の枢軸連邦に呑み込まれるはずなのに。
「そうね。まあ、いいわ。それも含めて、あなたたちはまず戻りなさい。王国の勢力が公国にあることだけでも、何かの口実になるかもしれないから」
「お嬢様‥‥‥」
数日後。
泣きながら帰路につく元家臣たちを上階の自室の窓から見送りながら、アンリエッタはお腹を優しくさすっていた。
「蒼狼族の妊娠と出産には‥‥‥最低、三年かかるのを知らないのがあなたと誰かさんの計画の、最大の問題点ですわ。イブリース‥‥‥」
静かに怒りを称える狼の姫は、そっと復讐を誓うのだった。