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亡き妻の思い出

 その朝。

 バートン公子イブリースは少しばかり物憂げな表情だった。

 いつも通りに起き、仕度を整え、馬車に乗り、そして王宮へと出向いた。

「どうした、イブリース。今日はばかに落ち込んだ顔をしているな?」

 イブリースは王都の第二外壁を守る先手組だ。

 鉄砲、弓矢に弩弓、鉛を溶かしたものを流し落としたりとその外壁を敵から防衛するのが主な務めである。

 この国はそうは言ってもここ、二十年。

 王都までたどり着いた外敵はいない。

 ただ、自分の持ち回りと装備の確認をしてあとは近習たちに何かあれば知らせるようにする。

 それが毎日の、『重要な公務』、だった。

 黒髪に青い瞳、男から見ても背丈もあれば見映えもわるくない。

 そんな彼に声をかけたのは、同じ先手組の鉄砲担当のアルバーニ子爵令息グランだった。


 赤毛に緑の瞳の彼の外見は映える。

 城内の貴婦人たちの憧れの的だった。

 しかし、当の本人は結婚などにはまるで興味がないらしい。

 今日も鴨を撃ちに行くぞ。

 そんな話を仲間としていたのを先程、イブリースは聞いたばかりだ。

 だから嫌味を言ってやる。

「なんだ、グラン? ご婦人方の瞳をうるわすその外見で、鴨の命すら憂いにいくのなら俺に用なんぞなかろう?」

 と言われ、グランはこう見えて実直な男で言われた言葉をそのまま、間に受けることがある。

 この時がまさしくそうで、まるで恋人にフラれた。

 そんな悲しそうな顔をしていた。

「そんな詩篇でも読み上げるような嫌味を言わなくてもいいだろう‥‥‥。俺はただ声をかけただけだ」

 あーわかったわかった、心配だと言いたいのだろう?

 イブリースは代わりに答えてやる。

「それはそうだが。なぜ今朝にかぎってそんなに、晴れない顔をしているんだ?ここ数か月、あのミーシャ様との婚約が決まり晴れやかだっただろう?」

 晴れやか? この毎朝の公務のあとの、あの狭い牢獄がか? 

 自分の悩みは余人の知らないもの。イブリースは空を見上げて、グランに言い放つ。

「たまにはお前の脳内にも、今朝のような暗雲が立ち込めることを祈っておくよ。行け!」

 イブリースは馬車に乗り込み、御者に合図をする。

「まるで俺の頭の中はいつも快晴。晴れやかなる馬鹿のように言うなよ‥‥‥」

 あとにはしょんぼりと肩を残すグランが取り残されていた。


 築三世紀に渡る古城は不便だ。

 家族が暮らす河に面した本宮から、自分の部屋がある西の離宮までは中庭を経由しなければならない。

 中庭は天空庭園のようになっていて、元々は、ここがこの城の大元だった。

 それを西に東に増築を重ね、いまのアーブル城がある。

 この両側には手摺もなにもついていない、太いオーク材の渡し廊下がしつらえられていて、ミーシャはそれが大の苦手だった。


 横幅は数メートルあるその橋は別に下が見えるわけでもない。

 ただ、その向こうに目をやればそこが空中にあると意識せざるを得ない。

 この感覚。

 現代風に言うと、高所恐怖症。

 ミーシャはこれの軽度なものをもっていた。

「お父様。ミーシャはあれが怖いです。せめて、手摺りを‥‥‥」

 そう、幾度か頼み込んでみたことがある。

 しかし、父親は頑として首を縦にふらなかった。

「あれは、敵が平原から攻めてきた際に、墜とすためにあるのだ。我慢しなさい」

 父親は普段はミーシャには甘かったが、この点だけはどうしても理解を示さなかった。

 だが、このレブロン侯爵令嬢には最近になっている。

 そのオーク材の架け橋とその向こうに続くドア、そしてまたオーク材の通路。

 最奥にあるドアを開けることが楽しみでならなかった。


 レブロン侯爵令嬢ミーシャは今日も軽やかにステップを踏んでオーク材の床を歩く。

 あと少し、もう少し。

 あと数歩で彼女に愛を告げる騎士たちの贈り物の山がある。

 珍しいおもちゃに、よく理解できない肖像画、著名な詩人の詩集に、美しい織物。

 ここ数か月の間、毎日のように届く贈り物の数々。

 世俗をよく知らない彼女は、高名な騎士たちからなぜこんなに贈り物が届くのかを理解していなかった。

 十二歳の彼女はそんなものには興味がなかった。

 その扉の向こうにいるのは年上の初恋の婚約者と、たくさんの甘いお菓子たち。

「おはよう、私のミーシャ。愛しているよ」

 その甘い一言が、お菓子をより甘くする。

 いつもその毎日が続いていたからだ。

 優しい彼、バートン公子イブリースは二十歳。

 かなり年齢の上の男性だ。

 最初は二人で会うことすらも怖がっていたが、家庭教師から出される宿題などを共にしてくれる。

 そんな時間を長く過ごすうちに次第に、ミーシャの警戒心は溶けていった。

 優しい彼は、週末の礼拝と公務を除けばほぼ、彼女のそばでいてくれる。

 ある家政婦は二人が睦まじく過ごすさまをこうだったと話していた。

「嫌です」

 しかし、困ったように黒髪の青年は肩をすくめる。

「これがいいと言ったではないか?」

 ミーシャの視線は彼がもつそれにじっと注がれる。

「嫌でございます、旦那様」

「まだ、旦那様ではないのだが?」

 訂正をする青年に、ミーシャはいいえ、と否定した。

「お父様より、すでに婚前契約書は交わしておる。仮の夫婦なのだから、旦那様と呼ぶように。淑女としてのたしなみとお見せしなさいと、そう言われております」


 まだ若い十三歳のこの婚約者。

 金色の巻き毛に菫色の瞳。

 どこかの英雄譚にでも出て来そうな、見事な美しさをはなつ美麗な顔立ち。

 自分にはもったいないほどに可憐でその心を開こうとしてくれている。

「いいですか、ミーシャ。ならばわたしも仮の夫として言いましょう。この問題は‥‥‥数学のこの問題を御婦人が解けることは素晴らしい。ですが、自分のためにするのでないのならばやめておしまいなさい」

 イブリースはそう冷たく突き放す。

 夫に甘えたい為に頑張ったのに。

 少女は悲し気に、顔を曇らせる。

「では、ミーシャはこの家庭教師を首にする訳にもいきませんから。もっと頑張ります‥‥‥」

 ふうん、健気なところはとても好感が持てる。

 王宮でたまに開かれる晩餐会などで、異性の気を引こうとする淑女の方々よりはましかもしれない。

「では、少しだけ。目をつむってごらんなさい」

 イブリースはお菓子をその山に戻すと、ミーシャに悪戯っぽく言ってのける。

「目をですか、でもそれでは」

 どれを食べれるかわからないではないですか。

 食べたいものはたくさんあるのに。

 あの青いマフィンがいいなあ。

 幼い少女の視線の先はそれを見ていた。 

 イブリースは素知らぬフリをして、目を閉じた彼女に言う。

「ほら、もう少し。それでは入りませんよ?」

 そんな、とミーシャは言い、おずおずと小さな口を開ける。

 あのマフィンではないのだろうか?

「だめですね‥‥‥ほら、もう少し。せめて、これくらいは」

 触れることも気恥ずかしい旦那様の指先に頬を、そして舌先を触れられ少女は頬を赤らめる。

「こっ、これくらい?」

 まだだろうか、あの甘いお菓子は?

 そう期待してそっと歯が見えるていどまで口を開いてみる。

「まだだめですよ、わたしのミーシャ。せめて、これくらいは」

 ミーシャからすれば力強く、下口を開けさせられる感覚。

 そして、そっと送り込まれてくるそれは。

「甘い‥‥‥」

 目を開けると、ケーキにふんだんに盛り付けられている、生クリームをイブリースは指先で取りミーシャに与えていた。

「こんな甘さはいかがですか? わたしのミーシャ?」

 わたしのミーシャ。

 その言葉には特別な響きがある。

 こころを生クリーム以上に溶かすようなその思いに少女の胸はときめきをかくせない。

「旦那様‥‥‥次は、古語の勉強を、お願いいたします!」

 おや?

 この仮の新妻はまだ頑張る気らしい。

 イブリースは微笑んで書籍を開いた。


 こんな光景が日常茶飯事に見受けられたから、ミーシャの居城であるアーブル城で二人の不和を疑う者は誰としていなかった。

 しかし、ある日、それは一変したのだった。

 いつものごとく公務を終え、そのままアーブル城に向かい夜までを過ごし、帰宅する。

 これがミーシャと婚約を交わした時からのイブリースの変わらない日常だった。 

 空には曇天が張り、いまにも一雨きそうな中を彼は城に入城する。

 ミーシャの両親のことの仔細を報告し、まずは双方の家にとって損のないように取り計らうつもりだった。

「こういう次第です、閣下。こちらとしては大きな外野への波紋は広げたくはないのですが‥‥‥しかし、王宮ではすでに」

 義理の父親になる予定のレブロン侯爵は苦虫を踏み潰したような顔をした。

「そうですか‥‥‥あの、酔狂なレッドバート伯爵が‥‥‥」

 なんということをしてくれたのだ。

 ミーシャの父親は騎士としても名高い男の名を挙げた。

 母親の侯爵夫人はとても悲しそうに顔を伏せていた。

「あれほど、返事をしてはならない、そう躾けて参りましたのに」

 いいえ、とイブリースは二人を思いやり顔を上げるように促す。

「もう十二歳になれば、それは淑女のたしなみです。御二方がどうこう悩まれることはありません。この後ですが、どうかこちらからの一方的な破棄、そういう話にさせて頂きたい」

 レブロン侯爵が顔を上げる。

 非は彼らのほうにあるからだ。

 一方的ではあなたが恥をかくではありませんか?

 そう驚いて彼は叫んだ。

「あのレッドバートが吹聴する前に、わたしから破棄を望んだ。そうしておけば、まだ婚約すらもしていない少女に愛を叫んだ単なる騎士。レッドバートもそれで済みます。両家の為にもそうさせて頂きたい」

 何も言い返せない夫妻をその場に、イブリースはミーシャが待つ彼女の自室へと足を運んだ。 



 バートン侯爵令嬢ミーシャは今日も軽やかにステップを踏んでオーク材の床を歩く。

 あと少し、もう少し。

 あと数歩で彼女に愛を告げる騎士たちの贈り物の山がある。

 しかし、扉を開けた向こうでミーシャを待っていた婚約者イブリース公子の言葉は今日は違った。

「ミーシャ。君にはいい加減、失望した。これで婚約は破棄させてもらおう」

「イブリース様‥‥‥???」

 その言葉の意味を理解するまでに、ミーシャは数瞬を要した。

「なぜです? イブリース様は、あれほど毎日、愛しているよ、わたしのミーシャと呼んで下さったのに」

 まだわからないのか。

 だがそれも仕方ない。

 まだ十二歳の子供だ。

 ここで現実を突きつけても、何もなるまい。

 彼女の心に大きな傷を残すくらいならば‥‥‥。

「すまない、ミーシャ。わたしは君につきあうのに疲れたのだ。もう、夫婦ごっこはしていられない‥‥‥さらばだ」

 イブリースは長靴を鳴らしてオーク材の橋を渡り去ってしまう。

 この時、ミーシャの幸せは瓦解した‥‥‥。



 あの婚約破棄から数週間。

 王宮内でまことしやかに、私はあのイブリース公子の妻であるミーシャ夫人よりの愛の言葉を頂きましたぞ。

 そのように吹聴していたレッドバート伯爵は、面目を失っていた。

 なにせ、そのイブリース公子本人から嫌味を言われたからだ。

「失礼だが、レッドバート伯爵閣下。ミーシャ様よりその御返事はいつ頂いたものかな」

 イブリースは王宮内で質問した。

 これは決闘になるかもしれない。

 衛士たちが身構え、婦人たちは男同士の争いに興奮を隠せない。

 他の仲間たちが止める中、レッドバート伯爵は自信をもってイブリースに答えた。

 先週の木曜日ですよ、公子殿、と。

 それは良かった、そうイブリースは答えた。

「良かった? それは負け惜しみですか?」

 伯爵の嫌味もイブリースは軽く微笑んで蹴り飛ばしてしまう。

「いいえ、わたしは先週の火曜日にすでに婚約破棄も、婚前契約書すらも破棄することをバートン侯爵様と内々に決めておりましたので」

 大広間内で嘲笑が漏れる。

 これではレッドバート伯爵は単なる恋人の申し込みをしただけだ。

 それに対して、まだ若い少女は、ただ、はい。

 そう返事をしたかもしれない。

 結婚している美しいご婦人に愛を語り、その戦功の大きさを誇り合い、彼女の返事を待つ、それが騎士の醍醐味なのに。

 レッドバート伯爵は、一瞬で間抜けな騎士に早変わりしてしまった。

 そしてイブリースは留めの一撃を容赦なく、この不貞な男に撃ち込む。

「婚約は家と家との約束。まさか、令嬢御本人がそれを知らされていなくても不思議はない。その程度には、閣下も騎士道をたしなまれているでしょうな?」

 と、冷たい釘を打ち込んでいた。

 そう言われた後、顔を真っ赤にして、レッドバート伯爵は王宮を去っていた。



 ☆



「はあ‥‥‥」

 イブリースはため息をつく。

 大きな、大きなため息だ。

 まるでマス釣りに行き、巨大な獲物を逃がした時のような。

 そんなため息だった。

「まだ悩んでいるのか? ならどうだ、クヌーカにいかないか?」

 悪友と言ってもいいアルバーニ子爵令息グランはある遊びにイブリースを誘った。

 少しでも気がまぎれればいい。

 そう思ったのだろう。

「なんだ、グラン。あんな、ボートで滝下りを楽しむのがそんなにいいのか?」

 いいぞ、とてもいい。

 なにより、ストレスが発散できる。

 死ぬほど怖いがな。

 そう、グランは言った。 

 クヌーカとは、この山あいの渓流がおおい王国で流行っている、そこの浅いボートでの川下りだ。

 ただし、傾斜は急で、滝に落ちる角度を間違えば死に至ることもある。

 たまに、騎士の決闘の代わりに使われることもある遊びの一つだった。

「お前は本当に悪友だな‥‥‥クヌーカをするならば」

 あの城の横から始めねばならないではないか。

 ミーシャがいる、あのアーブル城から‥‥‥丸見えだ。

「仕方がないだろう。

 あの付近が一番安全なのだ。

 この時期なら熊も出ないしな。ほら、いくぞ」

「おい、グラン!!」

 悪友は腰をなかなか上げようとしないイブリースを、仲間に合図して無理矢理、馬車に放り込んだ。


 

 それは、偶然だったのかもしれない。

 イブリースにフラれ涙にくれてここ最近のミーシャは部屋から出ようとしなかった。

 西向きの窓からはよく、グランが言うクヌーカ遊びに興じる若い貴族子弟たちが川岸で騒いでいるのが聞こえて来た。

「自分のした行いが、あんなに愚かだったなんて。もう、修道院にでも入りたい気分だわ‥‥‥」

 でも、それは十六歳からね。

 ミーシャは嘆き悲しい息を吐いた。

「せめてもう一度。きちんとした謝罪だけでも差し上げないと、だめね。でも、無理かもしれない。お父様は二度と家からは出さないとあの橋すら上げてしまわれたもの」

 そう、彼女の父親の怒りはすさまじく、ミーシャは上げ下げできるあのオーク材の橋を父親の命により上げられていた。

 つまり、この離宮で生涯を過ごせ。

 それほどに、レブロン侯爵は怒っていたことになる。

「いいわね、皆さま方。そんな命知らずな冒険ができるなんて‥‥‥あ、そんなっ」

 まさか、そう思い窓枠に駆け寄ってそれを目にしたミーシャは驚きの声を上げる。

「イブリース様‥‥‥」

 今日は水流が多いから、危険なのに。

 なぜ、こんな日にクヌーカなど。

 止めなくては!

 そう思っているうちに、彼らが乗るボートは流れ出てしまう。

「ああ、もう! こんな時のために水先案内人くらいつけなさいよ。旦那様のばか!」

 あれ?

 わたし、いま旦那様と言った?

 もう一月もあれからたつのに?

 ミーシャは己の心に正直になった。

「会いに行きましょう。このまま、ただ捨てられてなるもんですか」

 少女の心に‥‥‥どうやらくすぶっていた怒りに炎がついたようだ。

 自分の行った不貞は隠しようがない。

 その罪は受け入れよう。

 だけど、と少女は不満気に叫んでいた。

「あれほど愛をささやいたのなら。そのお腰の剣で斬ればよかったのよ‥‥‥!」

 こんな離宮、もう何年も探検して外にでる道くらい知っているわ。

 ミーシャは父親の鴨撃ちに付き合い猟に出るときの長靴にズボン、革の上着をさっさと羽織ると部屋から抜け出していた。

 行き方は簡単だ。あんな桟橋なんていらない。

 この城の地下には森への抜け道がある。

 もうずっと使われていないけれど、最低限の掃除はされている。

 いつ、ここが最前線になり、逃走路になるかわからないからだ。

 森の中も勝って知ったるものだ。

 しかし、少女の足では流石に川下りのボートには追い付けない。

「いくなら‥‥‥滝ね」

 あの越えるジャンプポイントを間違えれば、奈落へと落ち込む滝。

 しかし、うまくいけばその底から弾き出される。

 毎年、数名の死人が出ている危険な遊びでもあった。

 大きく迂回して流れる渓流と、滝までへの直線の下降路。

 時間的には、ミーシャのほうが少しだけ早かった。

 そして彼女は見てしまう。

 滝から見事に飛び降りる。

 イブリースたちが乗っているはずのボートを。

 思わず滝つぼに飛び込んだその姿に、ミーシャは彼の名を叫んでいた。

「イブリース様あ―ッ!」

 待つこと数瞬。

 ボコンと音を立てて、ボートは浮かび上がってくる。

 グランなどがこれは最高だ!

 そんな喜びの雄たけびを上げる中に目当ての彼は‥‥‥いない。

「そんな‥‥‥旦那様‥‥‥」

 滝の入り江付近でへなへなと座り込むミーシャは泣き叫ぶ声も忘れてただ涙を流していた。

 何度も何度もその名を呼んでいた。

「旦那様‥‥‥旦那様‥‥‥」

 と、繰り返しながら。

 グランたちが乗るボートはそのまま下流へと、次の滝の挑戦しにいってしまいミーシャは一人になる。 

 放心した彼女はそのまま座り込み、どうすればいいのか。

 自分もあの滝に飛び込んで死ぬべきか考えていた時だった、どうしようかと決めかねているそんな彼女に近づく影があった。

 ふと気づくと太陽は天頂たかくのぼり、ある影をミーシャの上に落としかけていた。

 それに気づいたミーシャはまさか、熊?!

 そう思い振り向いた時だ。

「呼んだかい、わたしのミーシャ?」

 全身、ずぶ濡れで歩き疲れた。

 そんな顔のイブリースがそこに立っていた。

「そんな、だって‥‥‥」

 ミーシャは滝壺とイブリースを交互に見る。

「‥‥‥途中で降りたんだ。わたしは恐いところが駄目なんだよ。グランの薄情者め、置いていったな、あいつ」

 そう、イブリースは一人でグランに毒づいていた。

「旦那様‥‥‥よかった」

 少女に抱き着かれ、イブリースは戸惑うばかりだ。こんな未来は予測していなかった。

「いや、あまりよくはないんだけどな? わたしはもう、君の婚約者ではないよ?」

 こっちから破棄した卑怯者だしな、そうイブリースは言う。

 しかし、少女はがっしりと手を放さず、ただただ、謝ってばかりだ。

「このミーシャが愚かでした。最後にお詫びを‥‥‥」

 お詫びをと言いながら、その手は離さないんだな?

 イブリースはどうしたものかと困ってしまう。

「仕方ない。なあ、ミーシャ。今更だが、再度の婚約を申し込むことは‥‥‥許してくれるかい?」

 彼の問いに、少女は円満の笑みと、最高のキスでそれに答えた。

 最愛の男性を抱きしめてキスをしたミーシャは泣きじゃくるばかり。

 そして自分はずぶ濡れで、季節はまだ冬を終えていない。

 このままでは二人で風邪を引くな。

 ミーシャの両親にも挨拶をするべきだろう。

「さて、では叱られにいこうか?」

「叱られる? どういうことですか、旦那様?」

 幼い少女はまだ貴族という世界に明るくない。

 そうだねえ、言葉を選んでイブリースは彼女に分かりやすく伝えることにした。

「誰が悪くて、どちらから婚約破棄をしたか。そこが問題、かな?」

「ですが、それはミーシャの不貞が原因です。旦那様が、お父様やお母様に謝罪されることは必要ございません!」

 いつの間にか強くなったね、君は?

 あのお菓子が大好きな甘えたなわたしのミーシャはどこにいったんだい?

 そうイブリースはミーシャを抱きかかえると歩き始めた。

「ああ、でもそうか。ぬれねずみなのはわたしの方だな」

 手をつないで歩かないか、未来の妻よ?

 イブリースはそれでも歩幅をかなり狭めないといけない少女と共に森の道を歩き出す。

「しかし、よくこんな道を知っていたね? それより、どうやってあの城から抜けでられたんだい?」

 侯爵からは、跳ね橋をあげてしばらくは反省させます。

 そうイブリースは聞いていたからだ。

 ミーシャは歩きながら、悪戯がみつかったようなそんな顔をした。

「まさか、窓から飛び降りたとか? そんなことではないよね、ミーシャ?」

 それならどこか怪我でもしていないか、そう青年は若い婚約者に気を遣う。

 紅葉も過ぎ、枯れ葉の多い斜面の登り道をイブリースに手を引かれながらミーシャはそっと打ち明けた。

「実は‥‥‥ミーシャが住んでいる西側は、あの城で最初に作られた場所なのです。ですから、抜け道などもーその‥‥‥」

 これは面白いね。

 そう思い、イブリースは少女に笑顔を見せた。

「フフフっ‥‥‥! しかし、抜け道か。これはいい」

 あまりに彼が楽しそうにするものだから、ミーシャは自分の行動に気恥ずかしさを感じてしまいしまいにはイブリースにひどいです、そんなに笑わなくても、なんて拗ねて見せた。

「で、どうやってわたしがあのクヌーカに乗るのを見つけたんだい? あの薄情者のグランが教えたのかい?」

 少女はますます、うつむいてしまう。

 自分が見つけたことを言うのはどこか気恥ずかしいものがあったからだ。

「いえ、その‥‥‥たまたま見えたのです。こんな水流の多い日にクヌーカなど。水先案内人でもつけてください! と‥‥‥叫んでおりました。その旦那様のばか、と。危ないのに、と」

「わたしが馬鹿、かい? そうか、まあ、それはそうだな。それで、一月ほどのいらいらが溜まってせめて文句でも言おうと?」

 少女はコクンとうなづく。

「気に入らないならば、お腰の剣で命を奪って欲しいくらいでした‥‥‥」

 やれやれ、君はなかなかに苛烈だねえ?

 その幼さで、立派なレディだ。イブリースは少女を安心させることにした。

「いいかい、君が返事をしたその二日前に、わたしは婚約破棄をした。そう、あの間抜けなレッドバート伯爵に言ってやったら名前の通り、顔を真っ赤にして王宮を出て行ったよ。意味がわかるかな?」

 ミーシャはよくよく考えてみる。

 それはつまり、あのよくわからないおじさんの騎士だけが恥をかいたのでは?

 そう思って、確認してみた。

「そうだよ、ミーシャはなにも悪くないのだ。そのように、きちんと終わらせてある。君が新たに誰かを、婚約者に迎える時の為にね?」

 イブリースは少女に優しく言ってやる。

「でも、それではイブリース様がお一人ではありませんか?」

 この返事は不思議だった。

「ミーシャはなぜそう思うんだい?」

 だって、と少女は顔を輝かせて言う。

「旦那様の妻は、このミーシャだけですから」

 と、彼のまだ水に濡れた服に抱き着いて言ったのだった。

 こののち、父親に叱られながらもミーシャは自分の口でイブリースへの思いを親に告白した。

 そして、結婚させて欲しいとも。

 困惑する侯爵にイブリースは自分からも願い出る。

 どうか、この良き理解のある女性を妻に頂きたい、と。

 その数か月後。

 二人は正式に夫婦となった。




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