真実のアンリエッタ
それは不思議な光景だった。
普通なら見ることが適わないものを、女王は可能にしていた。
リーゼの手が動いた後に、もう一人、別のアンリエッタがいたのだから。
「わたし‥‥‥嘘?」
「ほう。これはなかなか」
周囲は驚きの声に満ちた。
アンリエッタは信じられないという叫びを、イブリースは「たいしたものだ。賢者の魔法を破るとはさすが魔王の幹部」と感嘆の声を上げていた。
「やはり蒼狼族の娘。失われた公子妃補アンリエッタ様、で宜しいでしょうか?」
「え、ええっ? ちょっと、イブリース‥‥‥これって?」
「まあ、慌てるな、アンリエッタ。すべてはバレているってことだよ。その胎内に、二つの精霊が宿っているという発言からしても、相手は知っている。そうだろ、リーゼ様」
「そうかもしれません。しかし、不思議ですね。どうして我が天空航路をご利用に? 賢者様であれば、ハグーンの助力を仰ぐことも‥‥‥なるほど」
ふと、天空を覆う更なる影が一つ。
アンリエッタが見上げると、そこにはあの巨大な入道雲がはるかな高度から彼らを包みこむように移動しているように見えた。
「賢者の息吹は黒雲とともにある、と伝承にはありますが。そういうことですか、イブリース様」
「そういうことだ。あれは近隣にあるハグーンの分家みたいなのを呼び寄せる法。そのまま、行くこともできる。いまは俺たちの方が優勢かな?」
イブリースの不敵な一言に、リーゼはその金色の毛を逆立てる。
そこには恐れを知らない、不遜な男に対しての怒りと恐れも含まれていた。
「はっ‥‥‥なんという。ハグーンを巻き込んで、第八位の魔王。リクト様のグレム魔公国と対決でもするおつもりですか、あなたは! なんという――恐れ知らずな!」
「いや、違うよ。リーゼ様。俺にはこいつが、妻たるアンリエッタが大事なのだ。その胎にいる赤子も。グリムガル王国もグレム魔公国も、そして、エルムド帝国も、ルゲル枢軸連邦も関係ない。俺たちの子供が安心して暮らせるようにする、その為ならば何でもしよう。そういうことだ」
呆気にとられているアンリエッタにイブリースは手を広げた。
「いいから、今は任せろ」
再度、そう言い、イブリースはアンリエッタを抱き寄せる。
ここは魔王の領地。
天空といえども、それは変わらない。
賢者の都からの遣いは近くに来たが、まだそこには遠い。
おまけに魔王の幹部に、魔眼なんて理解不能なものまで出てきた。
イブリースは決意する。
言葉通り、彼女とその子供を守り抜く、と。
(いまは黙っていろ。お前をあそこに届けるまでは)
イブリースの瞳がそう語っているようで、アンリエッタは何も言わず、ただ唇を噛んで押し黙ってしまった。
もしかしたら、彼は死を決意しているのかもしれないと、頭の片隅にそんな思いが浮かんで消えた。
「そのお言葉をそのまま受け取るのは、少しばかり無理があるかと思います、イブリース様。不法侵入、身分詐称、先ほどまでは、殺人犯として国際指名手配を受けていた。おまけに、公国の公子妃補まで連れて。ああ、これに関しては、そうですね‥‥‥。あなたたち、バートン大公イブリース様とアンリエッタ様はすでに死亡、とされているようですが、そちらにおわすのは亡霊ですか? それとも賢者の秘儀?」
「賢者の秘儀だ。ついでに、グレム魔公国の魔王リクト殿だが」
「我が主が何か?」
「先代の魔王、蒼骸のルクスターを竜王配下の聖女と共に討伐し、八番目の魔王の座を継承したと聞く」
「‥‥‥あながち間違いではありませんが。魔族が竜族と共闘した覚えはありません。あれはあくまで、魔王リクト様の功績」
「なら、それでいい。その後、最近になり隣国のミンザ共和国の上院議員の娘を妻にされたとか」
「お詳しいですね。ハンナ王女は健在でいらっしゃいます」
「なら、知っているはずだ。ハンナ王女は大地母神ラーディアナの聖女だった。いや、現役でもそのはず。違うかな」
リーゼの尾は不可解なものを感じたかのように、少し、膨らんでいた。
この男、神々の名を出してなにをするつもりだ?
そんなふうに、苛立ちまぎれに揺れていた。
「いやなに、俺の妻も……元妻だが。あれも大地母神ラーディアナの聖女だった。そして、ハグーンで待っている。大地母神と共に」
「神の考え、その行動、いまどうあるべきかを語る輩は信頼できませんね、イブリース様」
「だろうな。だから、確認して欲しい。俺たちがこれからどうあるべきか。そちらの王妃様なら、神託を受けているはずだ」
「なるほど‥‥‥。聖女つながり、それはある意味、正しい選択――イブリース様。あなた、奥様がハグーンにいらっしゃると?」
「らしいぞ。霊体で現れて神託だけおいてまた、戻って行った。だが、これではどこをどうしていいかわからん。そこで、猫耳族に助けを、な?」
「‥‥‥抹殺せよ。そう命じられた場合はどうなさいます?」
最悪の場合の確認。
この賢者はどうでるだろう?
妻を差し出すか、それとも。
女王リーゼの背筋をいやなものが這っていく。
「決まっている。この場にいる敵を皆殺しにして‥‥‥逃げるさ」
渦巻く闘気の刃。
戦士たちが発する、不遜なこの男に対して牙を突き立てたいという怒りが室内を支配していた。




