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怪しい影

「さて、そろそろ戻らないか?」

「あ、そうね。ここって入ってよかったのかしら」

「それは分からんが、他に一般客がいないところを見ると船員以外はだめのようだ」

「関係者以外‥‥‥立ち入り禁止、とか?」

「可能性はある。いいじゃないか、素晴らしい海と空と雲海を見られたことだろう。これだけでも金を支払う価値がある」

 そう言い、イブリースはアンリエッタの手元からカップを受け取るとふっとそれを消して見せた。

 相変わらず凄いわね‥‥‥。

 そんな呟きが漏れそうになった時、アンリエッタの耳はかすかな足音を捉えていた。

「イブリース」

「うん? どうした?」

「誰か来るわ。あ、違う‥‥‥」

「みたいだな」

「え?」

「いいから。自然に振るまえ」

「はい‥‥‥」

 そっと自分の手を取ると誘うようにイブリースは席を立つ。

 彼の仕草はアンリエッタがこれまで受けたどの男性よりも紳士然としていて、一瞬、心が躍った。

「? どうした、アンリ?」

「‥‥‥いいえ、なんでもない、わ。ライオット‥‥‥」

「嫌味か? 俺はラッセルだろう」

「何でもないわ、ごめんなさい。間違えちゃった」

「大丈夫か、アンリ? いい景色を見ることが出来たし、戻らないか」

「……そうね、あなた」

 公子イブリースよりも作法が上手だと思った。

 そんなことは口が裂けても言えない。

 彼の故国は意外にも、公国よりも大国か歴史が古い国なのかも。

 全く関係のないことを考えている自分にしっかりしなさいと言い聞かせながら、足音の正体。

 いや、すでに二人に見えないところから監視しているはずの彼らに近づいていることに、アンリエッタは警戒を強めていた。

 しかし、そんなことは気にするなとイブリースは颯爽と歩き出す。

「あっ、ねえ」

「しっ」

 しゃべるな、そうジェスチャーをされてアンリエッタは口をつぐむ。

 これから起こるかもしれない危険に、胸が冷えこんでいく。

 そして、角を曲がったところで二人は足を止めた。

「おや?」

「船員、さん‥‥‥?」

 そこにいたのは三人の猫耳族の女性船員。

 二人はまだ若い兵士風の武装をしていて、もう一人はアンリエッタが見覚えのある相手だった。

 先方が驚いた声を上げる。

「あら、あなた。あの時の」

「ラウンジの‥‥‥船員さん?」

「お客様、なぜここに?」

 知り合いか? と、イブリースはアンリエッタを見た。

 訊かれてアンリエッタは、そうだ、と頷いた。

「何故と言われても客室が分からなくて、それでここに迷ってしまって‥‥‥ダメでした?」

「ダメではありませんが、ここに来られる方は珍しいので。多くの方は展望デッキに行かれますから」

「ご迷惑だったらごめんなさい」

「客室と言われますが、そちらの方は? 同室の方ですか?」

「あ、ええ‥‥‥ライオット。夫です」

「御主人様でしたか。それは失礼をしました」

「いえいえ、わたしが迷ったかと思って探しに来てくれたんです」

「そうでしたか。では、これに案内をさせましょう」

 そう言い、ラウンジで出会った相手は傍らの少女にしか見えない猫耳族の警備員に合図をする。

 彼女はご案内しますわ、と言い、二人の先頭に立って歩き出した。

「ありがとう」

「いえ、仕事ですから。どうぞ、こちらです」

 丁寧ながらどこか油断のならない歩みで進む警備員を、イブリースは後ろから面白そうに目で追っていた。

 短毛種なのかもしれない。

 金色の毛並みは変わらないが、尾も短く、それは警戒するかのように揺れていた。

 やがて棟を二つ越え、こちらから先になりますと告げると、彼女の尾は気楽になったように緩やかに垂れていた。

 感謝の言葉とチップを渡すと、その耳が嬉しそうに微かに動いたのが可愛かった彼女は、それでは、と頭を下げて元来た道を戻って行く。

 その後ろ姿が見えなくなるのを確認する前に、イブリースはさっさと部屋に入ってしまった。

「良かったの?」

「何がだ?」

「だから、見送らなくて良かったの」

「良いんだよ。それより、少し話は控えよう」

「えっ?」

 すぐに分かると告げると、さすが賢者。

 彼は詠唱なしで魔法陣を何もない空間に描きだしていた。

 それがいくつも上に重なり、積層のように段を描く。

 やがて自分たちの部屋の隅々にまで広がると、ふわり、と光を発して消えてしまった。

 それを見届けてから、もういいぞとイブリースは口を開いた。

「なあに? 今度はどんな悪巧みを思いついたの?」

「失礼だなー。悪巧みじゃない。防護壁だ」

「防護壁‥‥‥? どういうこと?」

「この船の中の会話はある意味、筒抜けだなと思ったんだよ。まあ、ラウンジなどはどうかか分からんが」

「えっ?」

「アンリエッタ、その狼の耳はどこまで物音を拾える?」

「どこまでって‥‥‥ラウンジの中なら端々まで、かな?」

 イブリースは予想外に優れた獣人の五感に舌を巻いていた。

 その割に味覚や温度などには敏感どころか鈍感だったりする。よく分からないところも多い。

 研究者としての興味が沸々とわいてくる。賢者の悪い癖だと思いながら、イブリースは不思議そうな顔をするアンリエッタに説明を続けた。

「どうもな、俺たちの会話も含めて乗客のものにまで耳と目が行き届いている。ようは監視されている気がしてならん。さっきの長椅子の会話はまあ、聞こえなかったようだがな」

「聞こえていない? あっ。あなた、まさかの‥‥‥」

「そりゃそうだろう? 影から出てきたなんて魔族以上に怪しい存在。いや、すまん。それは差別だな。とりあえず、聞こえないから来たのではないか。そんな気がしただけだ」

「なるほどねーでも、あの女性‥‥‥」

「ああ、あれか。顔見知りのような彼女か。あれがどうした?」

「うーん、ちょっと、ね。二度目でタイミングが良すぎる気がしただけよ」

「二度目か。詳しく聞きたいものだな」

「そうねー」

 と、アンリエッタはラウンジでの一幕を話し出した。


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