去り様
「……行くの?」
「ん?」
少女の口から言葉が漏れる。
あの日に感じたような空寒さ。
大事な存在があっけなく去っていく感触を、アンリエッタはまだ忘れていなかった。
「あなたも、わたしを捨てて行くのですか‥‥‥イブリース」
「‥‥‥」
コトンっと、宙を浮いていた食器類がトレイに綺麗に戻された。
そのまま、長椅子からそれは姿を消してしまう。
まるで邪魔だとでもいわんばかりに、イブリースはそれを消して見せていた。
「去るなら、こうするだろうな」
「何よ! それっ?」
「だからだな、跡形もなくあいさつも無く消える。そう言っているんだ」
「別れの挨拶ってこと?」
「どうしてそうなる‥‥‥言っただろう。あいさつも無く消える、と。それが望みならそうするが?」
「それは‥‥‥」
ほれ、とどこから取り出したのか、ドリンクの入った器をアンリエッタは手に持たされて落としそうになる。
本当に魔法みたい。
自分にもこんなものが使えれば、自信にもなるのに。
その憧れがそのまま、不満となり、イブリースを睨みつけてしまう。
「なにを膨れている? 尾が不機嫌なままに動いているぞ?」
「なっ! あなたやっぱりこれ見て!」
「そりゃあな。そんな分かりやすいモノ、そこにあれば利用しない訳がないだろう?」
「酷いっ! わたしにはあなたがまるで理解できない‥‥‥」
「ふん。人生経験が違う。あなたはまだ十六歳、俺はもうすぐ三十手前だ。倍近く生きているし、妻もいた。誰かさんは捨てられたようだが?」
「信じれないっ、なんて嫌味なの‥‥‥」
「他にも甘い結婚生活も知っているし、それぞれの家族との交流もあった。楽しい人生だったな。だが、過去の思い出は思い出だ」
「もう意味が分からないわ。何を言いたいのよ、イブリース‥‥‥主君殺しの賢者様。駄目な賢者だから駄賢者か‥‥‥」
「お前な。それは無いだろ、駄賢者は‥‥‥」
いささか心外だったようで、イブリースは口をとがらせていた。
アンリエッタはどこか仇討ちを果たした気分だ。
この駄賢者様、さんざん自分の心をさも、試すかのようにしてくれたのだから。
「いい気味だわ。あんなに優しかったのに‥‥‥今じゃ嫌味だらけだもの」
「俺が苛めているとでも言いたいのか? そっちだってさんざん、俺を弄んだじゃないか」
「失礼な! わたしがいつ、そんな真似をしましたか?」
「今だよ、いま。こうするなんて言いながら、ブレて悲しんでいる。その上、公子を殺せなんて自分の怒りや恨みを発散するために俺を利用しようとしている」
「それは、そのっ」
「誰だったかな? わたしの人生を買いませんか、あなたに捧げますとかカッコをつけていたのは」
「だからそれはっあの時は、そのつもりで」
「あの時?」
「今も、そう、よ。ええ、今も‥‥‥」
ふっ、とイブリースは不敵に笑っていた。
まるで見抜いていた、とでもいわんばかりに悪い笑顔だった。
この人は言質を取ってから相手を追い詰めるタイプだ。
アンリエッタはその笑みに対抗できない。
「そうか。今も、な。ふーん‥‥‥俺はずっとブレてない」
「嘘ッ、さっきまでどっちでもいいよ、って言ったじゃない。不安だとも」
「言ったよ。そりゃ不安だろ? あなたがそんなに一貫性が無いのだから、部下としては不安になるのは仕方ない」
「西に行こうって決めたのはイブリースじゃない! まだ何か隠していること‥‥‥あるでしょう? 奥様と交わした会話の中で」
「あるよ」
「そんなにあっさり‥‥‥」
「言うべきかどうか迷ったというよりは、聞いたら別の方向に走りそうだったからな。控えていた」
「もう、なんて嫌味なのかしら‥‥‥。はあっ、昼食まだあるでしょ。出してよ、悩んだらお腹空いたわ」
「食欲だけは一人前だな‥‥‥あなたは」
「良いから。さっさと出してよ、その便利な魔法で」
ひらりとイブリースの手が動く。
そこにはさっき消えたトレイごと、料理が食器に盛られて並んでいた。
食べ終わる前の姿で‥‥‥。
「また盗んだの、これ」
「失礼な。復元しただけだ」
「ふく、げん? また難しいことを言うんだから。食べられるの?」
「もちろん、食べられる。安心しろ、毒なんぞ入ってない」
「そう‥‥‥でも、パンとかが冷たいわ」
「文句が多いな。我慢しろよ。さて、控えていた内容だが」
「ああ、うん。何?」
「公子は風の精霊王との契約を打ち切られたそうだ」
「えっ‥‥‥?」
アンリエッタの目が驚きで丸く見開かれる。
それはつまり。
「あの人‥‥‥まさか、の」
「そう、普通の騎士になった。つまり、いつでも恨みを晴らせるな。だが、公国の軍隊はそのまま彼の支配下だ。帝国とも手を結ぼうかどうかというそんな時に、さあ、恨みを晴らしに行こうとするのは、どうだ?」
「どうって、それは賢くない、かも‥‥‥」
「だろう? 母親が殺人を犯すのを子供に見せたいか? 腹の中にいても、知るかもしれないぞ。なにせ、特別な子供だ。何があっても不思議じゃない」
「イブリース‥‥‥何がしたいの、あなたの本心が分からないわ」
「復讐、逃亡、安全な生活、そして子育て。どれがしたいのか俺には分からん。決めるのはあなただが、とりあえずは子供を優先したいと聞いていたから、逃げることにした」
「逃げるって‥‥‥だって、帝国に行っているじゃない」
「そうだ。だが、復讐と危機からは逃れられただろ? あちらに着けば、着いたでどうにでもなる」
「どうにでも、なるはずないじゃない! 既に帝国領土なのよ!」
ふっ、とイブリースは笑っていた。
世間知らずは駄目だぞ、とも付け加えて。
「西の大陸は太古の六神の王、ダーシェの管轄だった。しかし、それはもういない。となると、誰の管理になるかは分かるだろ?」
「大地母‥‥‥神?」
「多分、な。それも含めて行けという神託だろう。ま、神様の世界でも何かが起きている。そういうことだ。それにハグーンはこれを見守っているだろうな。俺よりも優れた賢者がいる。手放しにはしないだろ」
「大きな力ねえ‥‥‥信用できないわ。賢者ってそんなに多いの?」
「まあ、数百はいるな。あまり現世に干渉しないが、こんな問題を放置はしないだろうさ。俺も報告に戻れと言われるかもしれない」
「え? 見捨てて、行く、の‥‥‥?」
「不安げな顔をやめろ、まったく。いくなら一緒に行けばいい。迎えはあそこかもしれない」
あそこ?
目の前に迫るのは――あの巨大な鉛色の雲だ。
イブリースが言った、天空大陸のかけらがあるというその場所は静かに、二人が乗船する飛空船に近づいているようにも見えた。
不敵な微笑みの原因はこれなのね。
そうアンリエッタは理解する。
「もしかして‥‥‥あなた、これまでは主君殺しを目的に生きていたから、ハグーンに戻れなかった?」
「そんなことはないが、良い顔はされてないな。いまはこんな大義名分がある。それに自慢していいぞ」
「なにを自慢するのよ」
「賢者を配下にした王は少ない。いまをときめくエルムド帝国の皇帝です、成し得なかったことを、アンリエッタは出来ている。それくらい、賢者ってのは貴重なのさ」
「あなたの掌の上で弄ばれているようで、何も嬉しくないわ‥‥‥」
「俺だって先が見えない。神なんて都合の良い存在に操られたくはないからな。二人で足掻いてみるしかないさ。そうだろ?」
カップを片手にイブリースは杯を上げる。
カチン、と音を立てて鳴る二人のそれは、まるで祝杯?
それとも、冥府への案内の鐘かもしれない。
「愚かな人間が足掻いたら、最高神だって討伐できた。そんな過去だってある。俺たちにもいい未来はあるさ。だから、生きることを諦めるな」
「結局振り出しに戻るんじゃない‥‥‥」
「部下の優秀さは理解できただろ?」
「知らないわ、愚かな人」
「ああ、生涯にわたって愚かな部下さ。ありがとう、主人よ。ああ、うらぶれた元公子妃補様だな」
「何よっ、あなただって捨てられた元大公の癖に‥‥‥」
「褒め言葉だな」
結局、イブリースに言いくるめられた気もしないではないが‥‥‥アンリエッタはまあ、これもありかもしれないと不貞腐れる。
少なくとも、揺るがない心をもつたった一人の味方はいるらしい。
不満だわ、と思いながら目の前にある雲海を見下ろすのだった




