婚約破棄の昼下がり
「さて、困ったわね。どうすればいいのかしら‥‥‥」
落ち着いて、考えてみよう。
そう思い、改めて手紙を読み返す。これは彼の筆跡、この手紙に残る香りも‥‥‥スンスンっとそれを嗅いでみる。
うん、やはりイブリース。あの人のものだと、アンリエッタは確信する。だとすると、この手紙を彼が脅されて書かされたとか そうしないといけない状況に追い込まれたとか。
いろいろと仮説を立ててみる。だけど、どれもあてはまりそうにない。考え疲れてしまい、現実に戻ると、ふと思いついた。
この時間。本当に無駄だわ‥‥‥と、そう思ってしまったのだ。手紙が来てからこの三日間、ずっと悩み通した。人間ってこんなに長い時間、悩めるものなのだとも、再確認した。
「どうして男って生き物は目の前で、正々堂々と伝えないのかしら。そのためにだけに、戦場から一時的に戻ることも出来ないの? 魔法だってあるじゃない。転送して貰えばすぐでしょうに!」
あっ‥‥‥と、少女はそこまでぼやいて気付いた。
「もしかして、あの帰国。半年前のもそうだけど‥‥‥単なる子作りのために戻って来た? えー‥‥‥そんなあ、嘘でしょう‥‥‥っ?」
支えにしていた片肘がそれを思いついた瞬間、力を失ってしまい、彼女の上体は支えを失う。
つんのめりそうになったのを、どうにかこらえると、ははっと乾いた笑いが口から漏れ出てしまった。
半年前のあの夜から、彼の愛を信じていたのに。まさか、半年の間に妊娠の兆しが見えないから‥‥‥捨てられた? 都合のいい女として扱われた?
「帝国とわたしを天秤にかけていたのね、イブリース様」
自嘲気味な笑いが続いた。はははっ、と泣き出しそうになるのを抑えきれない。
「あーそっかあー、そう‥‥‥なんだ。そりゃそうよねえ、王国の支援でイブリース様の公国はどうにか独立できているのに、帝国の御姫様との婚約なんて、王国を騙してずっと前から段取り組まなきゃ出来るはずがないもの。へえ‥‥‥」
そう思い至った途端、めらめらと凄まじい怒りが沸いてきた。
怒りだけではない、熱いなにかが目頭を突き上げるように出てきて、頬を伝い、床に落ちていく。涙だ。
それが分かるまでに時間がかかった。
握りしめてしわくちゃになった手紙が濡れて、インクがにじんでいく。
騙されていた‥‥‥いつからだろう?
半年前? そんなに短いはずがない。
何年も、だ。用意周到に数年かけて、彼は自分と祖国を騙そうとしていたのだ。
あの人を待ち続けて友人も祖国も、両親とも別れてこの公国にやって来たのに‥‥‥。
「‥‥‥。わたしの最初に愛した男性だったのに。あはは‥‥‥あはっ。どうしたんだろ、わたし。泣きながら笑っている。なにこれ、何なのよー!」
ああ、そうだ。これは嫉妬だ、そして、怒りだ。女としての尊厳を踏みにじられたことに対する許せないっていう、心の叫びだ。
どうしたい? と、脳裏で誰かが語りかけてくる。 返事は明瞭に導きだされてきた。
「ええ、そうね‥‥‥おじい様のあの長い槍でも借りて、イブリースを突き殺してやりたい。わたしからあの人を奪っていった帝国の皇女だってそう。すまない、許してくれ、子供ができないから? ふざけないでよ、イブリース。ふざけないで‥‥‥女はものじゃないの。わたしは、あなたの道具じゃない」
ぎりっ、と奥歯に力が込められ、獣人特有の普段は見えない牙が、怒りによって頬の筋肉の収縮とともに見え隠れしていた。
「‥‥‥ううっ、ひっく。もう、どうするのよーこれ。化粧が落ちるじゃない‥‥‥人前に出られないわ‥‥‥」
ひとしきり泣いて、周囲のもの。ソファーやベッドや、クッションやもちろん、手紙の封筒はさんざんなまでに破いてやった。
手紙そのものは祖父に報告しなければならないからだ。
意外にもその辺りの気配りだけは冷静におこなえる自身に、アンリエッタは驚いていた。
「何なのよ、もう! 王国とか公国とかイブリースとか! そんなもの全部忘れて泣き崩れたいのに‥‥‥出来ないなんて。自分が恨めしい」
はあ‥‥‥復讐しよう。このまま、黙ってはい、そうですか。なんて受け入れられない。
しかし、ふとあることに思い至る。
「でもそれってわたしの役割なのかしら?」
頼るべき相手は他にいくらでもいる。己が手を汚すことはないのではないかと、アンリエッタは考え始めていた。
「面倒くさくない? 復讐なんて。まだ剣や魔法だけの時代ならいざ知らず、今は飛行船だって空を往く魔導文明が華開いて、自分たちは理性を重んじるようになったというのに。復讐するなら、もっと強い誰かに任せた方がいいわ‥‥‥」
さっさと祖父に泣きついて、裏切り者に報復するほうが手っ取り早い。
「でも、時間がかかるわね‥‥‥。この手紙が届いて三日。悩んでもう半日経つし、彼はそのまま前線かな? それとも公国に戻ってくる? 帝国にそのまま行くってことは考えにくいし、あ、でも」
そうなると、公城に住まうイブリースの両親。大公と大公妃の判断はどうなのだろう。
何より、こんな手紙一つで済ませようなんて――普通はあり合えない。
「調べに行くべき?でも、公国ぐるみで仕組まれていたら戻れないかも‥‥‥」
嫌な想像ばかりが頭をよぎる。
裏切ったのはイブリースだけど、自分には責任はない? 普通の貴族同士だとこういう時にはどうするのだろう‥‥‥などなど。
次々と考えが浮かんでは消えていく。
「なんだか、違うなあ……」
いやいや、そうじゃない。落ち着いてわたし、いまは王国と公国の問題を考えなきゃ‥‥‥。
婚約破棄を受け入れるにしても、そうでないにしても、ここから先の判断は自分の権限を越えている。
「あー頭が痛い‥‥‥それもこれも全部、目の前で言わない、あの人が悪いのよ」
目の前で言えるような度胸と智謀があれば、こんな間抜けなことはしないでしょ、と頭の中で誰かが笑っていた。
それもそうだ。やり方が理に適っていない。
婚約破棄を通告するよりも、帝国の女と結婚すると決めたのなら、王国の王女である自分を捕まえて、それを渡せばいいではないか。
「やっぱりあの人、軍隊を動かすことにだけ秀でた、単なる馬鹿かも」
そう揶揄してやると、帝国の皇女様が哀れになって見えた。
可哀想に。随分と年の離れた夫をあてがわれて、その男は国を活かすために、元婚約者を裏切った卑怯者なのだから。
これが噂となって広がったら、彼は世間から後ろ指を指されて、こう言われるだろう。「昇進の為に、契約を破った不名誉な男」、と。
そうは言うものの、これからどうするべきか、考えないといけない。
「おじいさまに報告の伝令を走らすにしても、残された時間はあるのかしら。おじい様、怒るだろうなあ」
と、少しだけイブリースに憐れみを感じてしまう。
婚約破棄をするということは、自分の。カールトン公爵家との縁を、公国は捨てるってことだから‥‥‥そのまま、公国と王国との縁も消えてしまう。
「ふうん‥‥‥公子の実家たるリオナール公国は王国との縁を捨て去りたい、のかな? ‥‥‥イブリース様はご理解なさっているのかしら」
アンリエッタのその次に出た呟きは、公国の命運を左右するものだった。
「おじい様、張り切って割譲していたものねえ」
イブリース公子が婚約に際して要求したのは、祖父の王国の領土の一部、公国に隣接するラウラ大森林の一部だった。
祖父は喜んでその領地を割譲したのだ。直系の可愛い孫娘の未来の為に。
「いやいや、違う。それも王国の為だわ。政治的な判断を抜きにして、あのおじい様が首を縦に振ることなんてありあえないもの。まあ、それにしても‥‥‥」
「蒼狼族の婚約破棄は、十倍返しが習慣だってこと」
わかっていますか、公子殿下?
「いま、あなたの首に蒼狼族の槍の穂先が付きつけられているってことにわたしはこの公都から出ることを許されない、制限された生活から解放されるから逆に嬉しいけど。あなたに報復できれば、まあそれは‥‥‥もっと嬉しいんだけど」
彼はそれを払う気はないと押し通すような意思の強さを持つだろうか。いや、多分ない。うん、ない。
「間抜けなイブリース様」
やっぱり出てくるのは、愚か者への呆れだった。