むずかしい蒼狼の姫
「今ですか? 難しい。でも、簡単に言えばこうして話せる程度には‥‥‥誰かに、抱きしめられていたいとは思ったりするけど」
「おいおい、待て」
そこまで言い、アンリエッタはパンをぽとりと、落としてしまう。
我慢していたものが堰を切って溢れ出し、涙が両頬を伝って怒涛のように彼女の心の悲しみを伝えていた。
「あの、なあ? 俺はそのー‥‥‥あなたの恋人ではないのだが‥‥‥」
「‥‥‥少しは黙って女性の涙を流すあいだぐらい、抱き止めてやろうとは思わないのですか? あなたは本当に、薄情な人。奪う前に一言、なぜいってくれなかったの?」
「いや、それは俺がしたが。だが、戻ったはずだろ?」
「いいえ、でも後からそれくらいは理解しました。蛇がどうのこうの言われた時点で、公子からなにかの追手がきたのだろうと。あなたが私を守るために、奪う決断を、素早くしなければならなかった程度には‥‥‥」
「すまん。あれは人間の子供ではなかった。妖精の、孵化すればあなたを養分として吸収し、産まれる。そんなものだった。公子が施したある意味、そうだな‥‥‥呪いのようなものだ。だが、その卵は新しい命として再生された。そうだろ?」
「そうだけど。でも、‥‥‥そんなもの、あの人が‥‥‥」
「すまん、俺にはああするしか出来なかったんだ。」
イブリースはなぜかその一言以外、口に出す事ができなかった。
アンリエッタは泣きじゃくるわけでもない、ただ静かに彼の組んだ足の上に顔を伏せている。
そんな彼女に、正しくかけてやるべき言葉が思いつかなった。
「‥‥‥ねえ、イブリース?」
「イブリース? 公子はここには‥‥‥ああ、俺か?」
「ええ、そう。あなたよ、イブリース。私を買いませんか?」
「は?いや、待てよ。今度はなにを言い出す?」
少女は顔を上げて、ラッセルと同じ位置に目線を合わせ決意したかのようにそれを口にしていた。
自分を買って下さい、と。
「奴隷でもない、商売女でもない。第一、そんな魔族の女、誰が買うんだ‥‥‥?」
「そんな意味で買えと言っているのではありません!」
「なら、どんな意味なんだ?」
「私の時間を差し上げます! だから」
「俺にあなたの何かを手伝え、と?」
「はい、そうよ。この世にイブリースは二人もいらない。そう思わない?」
「二人‥‥‥? まともじゃない、意見だな」
「どういう意味?」
「俺は復讐に付き合う気はない。公子とやらとも、剣を交える気はないぞ。イブリースは彼だけでいい。俺はラッセルとして生きるほうが良いだろう。そして、あなたもあいつのことは忘れろ。そうすれば‥‥‥」
「何、そうすれば!」
ああ、めんどうくさい、なぜこの年代の女性は、こうも自意識過剰なんだ。
説得するのもひと手間だと、イブリースは苦笑する。
「生涯の面倒くらいは見るさ、それが妻との約束だ。誰か好きな男性ができるまで、その身も守ろう。だがその見返りを求める男は、単なるクズだ。俺をそうさせるな。いいな?」
亡き妻に対して、不貞なんか働けるか。
イブリースは大きなため息をついてしまった。
「そんな女にばかり都合の良いセリフをだれが信じると思っているのですか?」
「おい‥‥‥。どうしてそう噛みつく? 俺はあなたに見返りをもとめたいわけじゃない」
「ならなにを求めると言われるのですか!」
「だから、なあ分からないか?」
「居場所が、欲しいから、だ。それ以上は話せない」
「そんな」
俺はまだ妻を見殺しにした、愚かな夫という罪から逃れられる。
そんな唯一の場所を奪わないでくれ。
イブリースはそう思うが、さすがに声には出さない。
自分の秘密を知られるようで、弱い男だとバラしてしまうようで。
それが、とても怖かった。
「わかりませんよ、ラッセル。わたしはあなたに、時間を売るといいました。ならば、あなたはそれ相応のなにかで買っていただかねば、困ります」
「だが、矛盾してはいないか? あなたが売りたいそれは、なぜ、俺に売りつける? 子供の為か」
「当たり前でしょう。他に何があるんですか」
「だがなあ、買うという行為について、俺は好きになれんよ」
「あなたが見た黒い蛇にせよ、他にも何か追手がくるでしょう。私は、無力です」
「ああ、そうだな。だから、側にいると言っている」
「なら、あなたの時間を私にください。私もあなたに、時間をさしあげます。死ぬまでとはいいません。せめて、産まれた子供が一人で生き延びられるまで」
その代わりに俺に自分を買え、か。
これも信じていた婚約者に裏切られて他人を信用できなくなった。
そんな悲しい経験から出た現実逃避なのかもしれない。
言葉だけでは信じられない。
形が無ければ駄目、か。
公子、お前はどれだけこの子を傷つければ気が済むんだ?
「あなたに話せないこともある。それを聞かないでもいいと、そういうならば――考えよう」
「本当ですか、イブリース?」
「ただし、夫婦だのそんな仲はなしだ。ついでに、あなたとの恋仲もなしだ。俺は、賢者の塔の賢者として立ち居ふるまいをすることにする。あなたは、その弟子、もしくは付き人、と。それでいいならば‥‥‥」
「なら、それでいいわ。多くを押しえてください。世間を知らないわたしに、イブリース‥‥‥先生?」
先生?
どうにも妙な居心地の悪さを感じるな‥‥‥。
とりあえずはこれでいいらしい。
イブリースはそう見極めをつけると、ロデムの店へと通路を開いた。
寝ている店主を叩き起こし、身分証ができるまで居座るというと、彼はためいきをついて数時間後には二人の身分証を用意してくれた。




