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後悔のかぎ爪

「話、どうするの?」

「また後で伝えるよ。どうせ、今は理解が追い付かないだろう? 俺もそうなんだ。まだ理解しようとして出来ないでいる‥‥‥」

「分かったわ、それでどこに行くの?」

 あの偽造屋のところに急がなければならない。

 イブリースはアンリエッタを抱き上げたまま、何の苦にもならないように軽々と歩いて見せていた。

「なぜ、彼に? なんだったかしら? アロン? 彼がどうかしたの、ラッセル?」

「どうかしたじゃない。あいつとはいま客と商人の間柄だ。つまり、敵の敵。俺たちの仲間は敵。そういうことだよ、アンリエッタ。俺たちの敵があいつを狙っている可能性が高いんだ。急がないと、あいつの命が危ない」

「ああ、そういうことね。でも、それは関係ないのではないですか? 先に降して欲しいわ‥‥‥歩けないけど」

 アンリエッタは考えてみた。

 アロンには確かに依頼はした、代価も支払っている。

 でも、彼は自分から連絡してくると言っていた。

 なら、それをしないようにすればいいのでは? とそう考えていた。

 それをラッセルに伝えてみたが、彼はやれやれといったように頭を振るばかり。

 まるで理解の足らない子供に、何かを教えているような感じだった。

「いいかい、公子妃補‥‥‥うらぶれた、元公子妃補様」

「なによ、その言い方。とても皮肉が効いているわね?」

「皮肉を交えているんだ。悪者にされたままだからな。彼にはこちらから依頼したんだ。意味がわかるか?」

「分からないわよ。もういいじゃない、お金だって払ったんだから」

「そういう問題じゃない。いいか、代金と信頼は別だ。あの依頼人は難題を持ち込んでくる。そんな厄介なやつだと思われたらどうする?」

「どうなるの? 噂が広まる? あ、そっか‥‥‥」

「そういうことだ。このあと、誰も手助けをしてくれなくなる。金の問題じゃないんだ。これは信義の問題だ」

「信義ってあなたは言うけど、また戻るつもりなの? あなたが言う‥‥‥そのとんでもない相手と戦う場が待っているかもしれないのに。自分から、危険に飛び込む気?」

 わたしは嫌よ。

 そこまで言い、アンリエッタは腕組みしようとして初めて気づいた。

 自分の爪先が血でべっとりと赤く染まっていた。それは、真っ赤でそれでいて褐色のようになっていた。

「何よこれ‥‥‥私、どこかで血を? 何の血?」

「何だろうな、気付くのが遅いよ、元公子妃補様」

「嘘っ‥‥‥まさか、あなたのなの?」

「ああ、気付いたか。起きる前にきれいに拭き上げてやりたかったが、生憎、目を覚ましたからできなかった」

「そんな、わたし、そんなつもりじゃ‥‥‥」

「心配しなくていい。俺がそれを許したんだ。君は悪くないよ」

 抱き上げられたまま見上げるそこにあるのは、使用人風の男の‥‥‥とても元、貴族様には見えない彼の顔。

 それは、平然としていて痛みなんか感じていないように見えた。

 口元も涼し気だし、目元だって涙すら見せない。

 どう見ても、背中から血を流して歩いている人間のする顔ではなかった。

「そんな悪い悪くないとかどうでもいいの! それよりも、治療しなきゃ‥‥‥ああ、私、なんてことをッ」

「ごめんなさいは止めてくれよ? これは半分、俺が悪い」

「どういうことなの、ねえ、イブリース! おろして下さらない? おねがいだから、ねえ」

「うーん‥‥‥キスしたことを許してくれるなら?」

「‥‥‥許すわ。もう足元の感覚もあるの。立てるから‥‥‥怪我を、ね?」

 イブリースは意地悪く微笑んでいた。

 その意図が理解できないまま、アンリエッタの足は地面に付く。

 慌てて自分の手を見て、彼の背中にはこれ以上の血が流れているだろうと推察した彼女は、慌てて、そちら側に回り込んだ。

 しかし、上がったのは悲鳴ではなく、驚きの声だった。

「無いわね‥‥‥何でないの、傷跡はどこに行ったの、イブリース?」

 そこには血も傷跡も、血しぶきの一つすらも残っていなかった。

 まるで何もなかったかのように、すべては綺麗なままに‥‥‥

「ねえ、どういうことなの? あなたの背中には、わたしのこの爪先が‥‥‥え? あれ?」

 改めて見つめた自身の爪先。

 そこには丁寧に切り揃えられた爪先がある。

 五本に五本。

 左右、十本の指先が‥‥‥揃っていた。

 血の跡なんかどこにもない、綺麗な手がそこにはあった。

「ちょっと、これはあんまりなんじゃないの?」

「さて、な? 俺は大丈夫だと言っただろう」

「なんて人なの、わたしだけ大騒ぎして馬鹿みたいじゃない」

 どういうことなの?

 また悪い夢を見せられた?

 それとも、あのキスをしたどうこうというのも、彼お得意の悪ふざけ?

 アンリエッタはそれでも自分が見た光景を嘘だと思えなかった。

 皮肉にも、蒼狼族の鼻は彼女の指先にのこるその匂いが、血のものだということを明らかにしていた。

「イブリース、お願いだから教えて。わたし、あなたに何をしたの?」

「伝えても怒らないかい? 俺の元公子妃補様?」

「俺のって言うところが、気に入らないわ。聖女様だったっていう、あなたの奥様とどんな関係があるのか知りたいわね」

「はは、こりゃきつい。いいさ、全部話すよ。ただ、迷っているんだ‥‥‥」

「もし、ここで話さないなら、別々になるって言いだしたら。私はどうなると思いますか? この虚無で子供を産むために生きると言えば? ここに残ると言えばどうですか?」

 そうだな‥‥‥イブリースはしばらく悩んで、これは真実を伝えたほうがいいなと言葉を選んだ。

「どうなるかと言えば、まず、食事はない。あっても、俺たちみたいな現世の人間にとっては猛毒だ。食べた瞬間から、虚無の一員に引きずり込まれてしまう」

「虚無に引きずり込まれる?」

「そうだ。ここのものを食べれば、身体が虚無に変化してしまうんだ。だから、食べるな。そういうことだ。食べたら死ぬかというとそういうことはない。むしろ、永遠に生きる存在になるだろう。でも、いつかは心が狂い、そして虚無に取り込まれる。その後は‥‥‥」

「後は?」

「その存在次第だ。心が強ければ虚無の一部から自分の存在を守り抜くこともできる。駄目なら、心も体もなくして存在すら消滅する。ここはあの世じゃない。世界の裏側のその更に奥にある場所なんだ。いわば、世界の誕生と消滅の狭間。生誕と滅亡は表裏一体。そこに、俺たちのような存在に頼って生きる何かは好まれない。つまり、誰かに狩られる」

「なら、なぜ私たちはこんな場で寝たり起きたりできるの? 存在だって狩られるのでは‥‥‥?」

 その為の、これだ。

 そう言い、ラッセルは指輪の一つと自分の持つ短剣を差し出した。

 最初に虚無に入り込んだ時に入り口をつくるために腕を刺した、あの短剣だった。

「この短剣に指輪で俺は免罪符、いいや。旅行手形を買っているんだ。あなたと二人分な? それだけでも、あなたの敵じゃないと理解して欲しいね、元公子妃補様?」

「敵だとはもう思っていません。ただ、不思議なのです。どうして、そこまでするの、イブリース元大公様?」

「たいした嫌味だな。最初は亡き妻の面影を追いかけていたかもしれない。今はあれに頼まれたというのもある。それにこれから伝える話が俺をそうさせている。聞いてくれるか?」

「そういうことなら……聞くわ」

 これはアンリエッタにとって、不幸になるかもしれない。

 ラッセルは話すと言ったのに、参ったと頭をかいてしまう。

 アンリエッタが産むと決めたその決意に負けそうだ。

 女は強い。特に、母親は覚悟が違うのだろう。

 俺には出来ないよ、アンリエッタ。

 お前はどうやってそんな心の強さを持てるんだ。

 イブリースはアンリエッタを直視できなかった。

 どういえば、彼女を傷つけなくていいかとずっと悩んでいたのだから。


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