不貞のイブリース
――あ、れ‥‥‥?
そこにあるはずの天井が無い。
目を開けた時、アンリエッタが見たのは眠る前に最後に見た光景。
あの宿屋の天井ではなかった。
見覚えがない、だけど、知っている場所。
そうだと、そこを理解するまでにしばらく時間がかかってしまった。
――やられた。
その思いが一番に浮かび上がる。
――誰よ、大事にするとか言っておきながら、結局、こうするんじゃない。今度は何? この身体でも狙う気? 本当に、男というものは信用ならない‥‥‥!
そこまで考えて、ふと気づいた。
動かない、と。
意識はある。四肢が動かない。見ることも聞くこともできるみたいだ。
でも、それだけ。
ここは、あそこだ。
――ラッセル。違う。イブリースお得意の虚空。動かないのはなぜ? やっぱり‥‥‥。
身体が目的?
せっかく、彼の懐かしい記憶を見て寝ていたのに。
そう、アンリは心でぼやいていた。
あの懐かしい日々がもう一度戻らないかと思い、幸せに浸っていたのに。
せっかく、良い夢だったのに!
そう、怒りが心に芽生え始めていた。
――でも困ったわ。身体が動かないと何もできないじゃない。このまま、抱く気かしら? 子供‥‥‥は?
そうだ、子供に悪影響が出るなら行為なんてするべきじゃない。
たまには一矢報いてやらなきゃ。
勝手に偉大なる祖先の耳や尾、この髪色まで変えてしまうなんて。
狼が猫になったなんて、本当に笑えない冗談だ。
アンリエッタの思考はまるで夢を見ているようにコロコロと変わっていく。
その多くは、公子イブリースが善人の頃の記憶が大半で、代わりに出てくるのがイブリースだった。
彼の行動はまともではなくて誰がどう見ても、彼の過去が信頼を得られる可能性は低かった。
ここ数日、虚空の中で見ていた夢とはまったく違う内容だ。
アンリはその違いにぼんやりと不可思議さを感じ始めていた。
虚空の中で見た夢の多くの内容。
それは、この旅が始まる原因だった公子イブリースからの手紙から始まり、彼の心の冷たさを知った。
彼に捧げた愛の深さは憎しみへと転化されて、心を蝕んでしまう。
――ロクでもない公子様だったなあ。
なんであの夜、あんなに楽しかったんだろう。
いま目の前にいたら‥‥‥頬を張ってやるのに。
張るだけじゃない、ようやく祖先の能力に目覚めることが出来たんだから――噛みつけばいいじゃない。
喉元深くまで、そして思い知らせてやればいい。
わたしを騙したことを。
偽りの愛を与えたことを。そして、子供‥‥‥?
そこまで何度も同じような思考をして、またアンリエッタの思考は最初に戻ってしまう。
公子イブリースを愛した記憶が再現され、イブリースの悪い面だけがよみがえる。
まるで記憶が巻き戻されたみたいな感じだ。
気持ち悪い。なにが一番気持ち悪いって、その巻き戻されて怒りに奔る自分自身のことを覚えていることだ。
――そろそろ気付かないとダメ。
アンリエッタはそう思った。
これは夢。
悪い夢。
誰かに作られた夢‥‥‥でも、自分では見つけられない。
その出口を。
助けて、イブリース?
イブリース様?
公子のイブリース様?
いいえ、違う。
事故のように巻き添えにしてしまった、あのイブリースだ。
イブリース‥‥‥ラッセル?
そう、イブリース!
「助けて、イブリース‥‥‥!」
「ああ、ここにいるよ、アンリエッタ。そろそろ、目を開けてもいいぞ?」
「えっ? あ、あなた‥‥‥」
「やあ、おはよう。随分、うなされていたな。大丈夫か?」
おはよう?
こんな暗闇しかない暗黒の世界で?
月すらも上がらないのに。あ、あるわ。訂正。
でも嫌味を言ってやらなきゃ気が済まない。
あまりにも近い場所に、イブリースの顔がある。
それも、唇と唇が触れるような距離に。
もっとも、自分が腕を回して彼の顔に近づいたことに、アンリエッタは気付かないふりをすることにした。
悪いのはイブリース。そう決めつけることにしたのだ。
「おはようじゃないわよ、不貞の方のイブリース様‥‥‥」
「その猫耳族の顔で言われると妙に愛嬌があるな、アンリエッタ? 不貞じゃないほうの、イブリース様、じゃないのか?」
「あなたのような、元大公様につける様なんて、まともじゃないわね。あなたには、ラッセルって呼び方のほうがしっくりくるわ」
嫌味が数度飛び出してくるその口をどうやって塞いでやろうか。
イブリースは一瞬、本気でそう悩んでしまった。
不貞のイブリース様?
もし、いま不貞を働けば俺はどうなる?
すぐにでもこの喉元を噛み切られるか?
それとも‥‥‥?
「ちょっと、なに‥‥‥? やだ、待ちなさいよ、だめ。それは――だめ、イブリース! 服に手をかけないでください!」
「ちっ。嫌味ばかりを言うからだ
「なんて人なの。あなたを信頼しようとしたわたしが馬鹿だったわ‥‥‥」
「ほう――じゃあなにか。事前に許しを得ればいいのか? 俺はあなたに振り回されてばかりだ。なあ、孤独な元公子妃補様?」
「あなただって、嫌味に拍車がかかっているじゃない。同罪だわ」
「かもしれん。だが言いたいことはまだまだある」
「男の多弁はみにくいですわ、イブリース」
「‥‥‥じゃあ、言わせてもらうがな。優しい部下も、旦那もあなたにはいない。いるのは、俺だけだ」
「だから何?」
「アンリエッタ。あなたは、もう少し感謝を抱いたらどうなんだ‥‥‥」
「そうね。あなたが弱って悲しみを心に抱えた女の弱みに付け込むように、キスをしようとしなければ‥‥‥それも抱いたかもしれない」
やれやれ、とイブリースは俯いてそこに横たわる少女を見ていた。
それは、大きな誤解だよ、とぼやいてやる。
彼女に対してそんな興味は全くなかったからだ。




