妻の幻影
うごめくイブリースの影はやがて、一人の人物の姿に変じていた。
金麦とうたわれたたゆたう黄金の豊かな髪。大地を透きとおしたような緑色の瞳。
その閉じられた双眸がゆっくりと開くと、この世から去ったはずの彼女がそこにいた。
「ミーシャ‥‥‥なぜ、だ‥‥‥。どうして、今になってあらわれた‥‥‥?」
(旦那様。ミーシャは死んではおりません」
「そんなバカな。俺は確かにお前の遺体をこの手で燃やした。大地に戻した‥‥‥はずだ」
(肉体が滅びようと、そのお側にずっと控えておりますよ。愛しのイブリース様)
妻の面影に沿ったような、細い手がイブリースにそっと近づいてくる。
その手を取ろうとして、イブリースは後ずさっていた。
彼女は死んだはずだ。
その思いを否定することが出来なかったからだ。
(ごめんなさい、旦那様)
「何を、謝る? 俺が悪かったのだ。あの時、古き神を従えて新しき神を迎え、国を思うがままにしようとした愚かな王に‥‥‥お前を譲ったのは俺だ」
(それは王命でした。旦那様は正しいことをしたにすぎません。いつか迎えに来てくれるはず。信じて待てなかったミーシャが、愚かだったのです)
「どうしてだ、今になってどうして?」
(旦那様。お願いがあります)
「願い? 願いとは? それに、お前はどうして俺の影に??」
そうですねえ、と亡き妻の亡霊のような存在は面影のある仕草をする。
右の頬を少し上げて、左上を見るのだ。
それはミーシャが困った時によく見せてくれた仕草だった。
本物、なのか‥‥‥?
イブリースは賢者であることも忘れて呆然としていた。
指輪に貯めた魔力を駆使すれが、それがどういう状況だとわかるはず。
そう気づいたのは、再びミーシャが口を開く直前だった。
(旦那様。いいえ、イブリースは悪くないわ。だって、ミーシャが死ぬことを選んだのです。でも、我が神は肉体を捨てて生きることを許してくれました)
「待て、ちょっと‥‥‥待て。俺は刺客に追われてすぐに国を出た。三年の間、国を離れていたんだ。その間に何があった?」
(いいえ、何もありません。主はミーシャがこの力に慣れるまでの間、ずっと天空にある神の大陸に存在することを許してくれました)
「神の大陸? それはまさか、竜神や大地母神が住むと言われている、あの大陸か? だが、それなら俺もそこにいた‥‥‥天空大陸ハグーンに。賢者の都にいたんだ‥‥‥気づかなかったなんて」
(旦那様は悪くありません。その時、ミーシャはまだこの状態に慣れておりませんでしたから)
「そう、か。だが、いまになってなぜ?」
イブリースは、指輪の魔力を高めてみる。
体内にそれが循環すると彼の賢者としての感覚は、妻が悪霊や魔族の類でないことを示している。
なんでいまなのだ、ミーシャ。
なぜ‥‥‥。あと数年早ければと、イブリースは叫びたくて仕方なかった。
(ようやく、下界に降りる許可が出ました。同時に、我が主とその子の血の盟約につながる精霊王からの命を受けて参りましたので‥‥‥)
「つまり俺に会いに来た、というわけではないのだな。俺はそのついでか‥‥‥」
(そんな泣き言は似合いません、私のイブリースはもっと強く気高い夫だったはず。いつの間にか、わたしから俺、なんて。勇ましくなられたものですね、旦那様)
「すまん、俺も色々とあったんだ。命を受けてきたということは‥‥‥そうか。長くはいられないということか?」
(‥‥‥残念ながら。またしばらくは天上にいることになるかと)
「なら、仕方ないな。お前に会えたことだけでも、俺には救いだ。で、何をすればいい?」
(では、我が主、大地母神ラーディアナ様と風の精霊王エバース大公の命を伝えますね‥‥‥)
俺はこんなに物わかりが良くていいのか?
抱きしめようとしても実体がない。触れることすらできない妻は、そこにいてどこか寂しそうに神々からの命を伝えている。
ミーシャ、俺はそんなものよりもお前が欲しい。もう一度あの静かな故郷で、二人だけで過ごす事が叶うなら。
(旦那様、聞いておられますか?)
「あ、ああ、すまん。では、この妖精の卵は、蒼狼族の子供として産まれてくると、そういうことなのか。しかも、最高位にある三大神の一柱、大地母神ラーディアナの加護をその身に受けている、と? それをどうすればいいのだ、ミーシャ」
(産まれてからは、大地母神ラーディアナ様のご加護を受けられる土地にて、育てて下さい。いずれ、その子は大きな波を起こします。そう、あなたが賢者になったように。後に続くもう一人の賢者が彼女を守るでしょう)
「未来を語る神ほど信頼できないものはない。俺のあとに賢者が続くという意味も理解できん。どうして大地母神は自決させた? 守ろうとすれば出来たはずだ」
(大地母神様は‥‥‥地下世界の天井に身を変じています。そんなに大きな能力はまだありません。私がこうなれたのも、あの方の神力を減らしたことになってしまって‥‥‥)
「そんな力の無い神が何を望むのか‥‥‥俺には全く分からん。だが、お前がそうしてくれと願うなら、それはどうにかしよう。アンリエッタが同意すればだ。産むのは彼女になるのだぞ? 公子イブリースの血は引いているのか?」
ミーシャは静かに首を振る。
ではこの子供の父親は誰になるんだ。一番傷つくのはアンリエッタじゃないか。
どうしろと言うんだ、まったく‥‥‥。
と、イブリースはつい、毒づいてしまった。
(あの、旦那様?)
「俺にはまだまだ気の休む暇が無さそうだな。主君殺しの汚名、公子イブリースからの追手とまあ‥‥‥どれだけトラブルが起こるのやら。いいか、ミーシャ」
(はい。何でしょう、イブリース)
「賢者は魔王や聖女にも匹敵する。勇者ですらも敵にすることが出来るほどの存在だ。いつか迎えに行く。その時に神々が邪魔をすれば‥‥‥いいな?」
(私のことよりも、イブリース。あなたの幸せを考えて下さい。でも、待っています)
それだけ言うと、愛しい妻は消え去ってしまった。
あっけない。それでいて、神の恩寵というか。奇跡に心の底から救われた思いがしたイブリースだった。




