厄介な探索人
イブリースはすこしばかり夢を見ていた。
懐かしい、まだ自分が普通の貴族だったころの夢だった。
しかし、夢というものは覚めてしまえば、虚しい思い出にしかならないものらしい。
薄暗い宿屋で借りた部屋の床の上でイブリースは、はっと目を覚ました。
あのうねるような見事な黄金の髪を思い出し、そこには太陽がいたことを彼は知った。
「戻れない、過去‥‥‥だな。なんで今頃になって思いだしたんだ」
頭に手をやってむくりと起き上がった彼は、同じ目線で寝ていたアンリエッタに目が行ってしまう。
黒髪の猫耳族。
その仮の姿はどうでもよく、生きていればミーシャはアンリエッタと同じ年頃だ。
片方はこの世を去り、片方は新たな命をその胎内に宿している。
彼女とその命を守るようにと、亡き妻があの世から願っているような気がして、彼ははあ、とため息をついていた。
「ミーシャ‥‥‥お前まで、まだ俺に死ぬなと言うのか? なあ、俺のミーシャ‥‥‥」
何度暗闇に問いかけてもそこには何もいない。
夢の中にいた妻の笑顔に賭けて守るべき、か。
また死ねなくなったな。
イブリースは虚しそうにそう呟いていた。
同時刻。
もう一人のイブリースがアンリエッタたちを捜索するために放った風の精霊達は、イブリースが作りだした偽物の遺体が眠る墓を突き止めていた。
夜明けが近いことをしめす一番鶏が鳴いた。
二番鶏まではあと少しばかり時間に余裕がある。
そよそよとさすらう風にのって、ざわめく枝葉のささやきが世界を揺らしていた。
――ここにはない‥‥‥
彼女はそんな顔をして、宙を舞い、他に数人いる姉妹たちとともにその場を漂っていた。
人間には見えない存在。
しかし、見えたらそれは数体の、人のようで人でない緑の燐光をまとった婦人たちが中空に浮かんでいるように見えるだろう。
あるかないかのような足で虚空を歩み、不思議そうな顔をして足元を見降ろして彼女たちが思案する。
――どこに行ったのかしら?
そのうちの誰かが呟いた。
――分からないわ?
また別の一人がそう言うと、その他の娘たちは肩をすくめた。
――分からないではだめだわ。だって、待っているもの。
誰かがその理由を口にして、周りは困ったようにうなずくと静かに足元を全員が見降ろしていた。
足元には数百、数千のさまざまな時代のさまざまな人物の記憶の象徴が眠っている。
その一つ。
他よりも少しばかり大きくて、とても新しいそれは一段と高い場にそびえている。
国の意思も含まれたそれは、悲し気につつまれているように多くの献花が周囲に積まれていた。
彼女たちが飛んでいた足元にあったもの。
それは、数日前に犯罪者によって殺された女性、アンリエッタの名が刻まれた墓碑だった。
そして、その反対側。
誰にも見えないような寂し気な北側の丘に、小さな墓碑とその側には墓標がある。
そこにはもう一人の同じ場で死んだ犯罪者、イブリースの名が刻まれていた。
女性の一人がその前にそっと降り立つ。
――本当にここに眠るのは‥‥‥彼なの?
不思議そうに小首を傾げて、正体を探るようにじっと見降ろしていた。
――墓を暴くことは出来ないから不便ね。あれが見張っている。
その声が言った、あれ、はすこしばかり離れた場所で、風の精霊達を監視していた・
普段なら出てくることも無い、古城などに生息するはずの奴ら。
闇に生きる魔の眷属だった。
牛ほどに巨大な黒く脅威の獣。
真っ黒な犬のようなその外観の顔には‥‥‥いかめしくも見る者の魂を焼き尽くすような金色に輝く双眸が密やかに二つ存在する。
ブラックドッグ。
死者を冒涜することのないように、地獄の魔犬は監視の目を緩めなかった。
――魔界の住人が、闇に覆われた地上の世界では、死人の安らかな眠りを妨げるものがいないように手を貸すなんて、なんて嫌味なの。
女性の一人がそうぼやいていた。
彼女たちは、風の精霊の末端に属する者。
聖なる世界の自分たちが、たかだか魔の尖兵に監視されるなんて皮肉なものだわと、女性たちは思っているようだ。
その一人がブラックドッグをからかうように、投げキッスを見せてやる。
魔はそれを嘲笑うかのように、口の端をあげて牙を見せた。
――あら、だめね。嫌われているみたいだわ。なら、呼ぶしかないわね。
女性たちの笑いがさえずりになり、大きな風の奔流となって墓場に押し寄せた。
上位の精霊がそれに呼ばれてやってくる。
――あなたたち、これだけ頭数がいて、まだ何も成果がないようね?
現れた緑色の髪の乙女は、白い羽を背に備えていた。
二枚の羽は、ブラックドッグよりは高位の聖なる存在だということを示している。
魔犬は仕方がないというようにその場に伏せてしまった。
いま、その場の支配権は魔から聖なる存在へと移り変わったことを悟ったからだ。
――まだ探していたの、あなたたち、遅いのね?
その存在は女性のように見えて、そうでないようにも見える。
世間では精霊と呼ばれ敬意と尊厳をもって接っせられる彼女たちは、いまはある人間の命令に従って行動していた。
――彼は本当に、しつこいこと‥‥‥二人とも、死んだということになっているのに。
二枚の羽をもつ彼女は、そう頭をふり、片手を当ててあきれたように再度、ぼやいていた。
――死人を追いかけるとは、どこまでも浅ましい人。イブリース‥‥‥。
そう契約もしていないのに自分たち、風の精霊に指図ができる彼を乙女は嘲笑っていた。
――もう、ここはいいわ。二人の死体は闇の世界の存在に守られている。死んだことの証明だわ、戻りましょう。あの忌み子に命じられるまま動くなんて、もうたくさんよ。そろそろ自由になる時だわ。
妖精との取り違いになった男は多くを望み過ぎた。
二枚の羽をもつ乙女は公子イブリースの彼女たちに対する扱いにうんざりとしているようだった。
彼ははるかに先の戦場にいる、そしてここは魔の世界。
あれの支配はもう届かない。
――お前たち、自由になる時よ。我らは契約した者とのみ、その能力を行使する。王国で唯一の精霊剣士、王妃と連なる存在は既に死んだ。我らとのつながりもこれで終わりだ。
そう宣言すると、魔犬に後をたくして彼女は去る決意をした。
紅の燐光を残し二枚の羽をもつ乙女が消えたとき、また彼女たちも姿を消してしまった。




