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生きることの代価

 怖い。

 まるであの夜に感じたような錯覚に陥ってしまう。

 彼を初めて受け入れた半年前。

 ふたりであれだけ盛り上がって、愛をささやいたのに。

 アンリエッタは初めて男性と肌を合わせるという行為に背徳感を感じていたのを覚えている。

 あの時はまだ二人は婚約者同士で、正式な婚儀を迎えるまでは夜と共にする行為なんて禁じられていたからだ。

 その恐怖感は彼の、男性の肉体を間近にした時に感じた。

「お、犯すなら、舌を噛みますよ!」

「舌を噛み切っても死ねないぞ? 逆さに巻き上がったそれで気道を塞がれて苦しいだけだな」

「あっえっ――なら、この爪で喉を」

「子供がお腹にいるのに? 母親が子供殺しとは罪深いことだ。嘆かわしい」

「そんなっ」

「聞いたところによると、胎内にいる時も赤子は親の会話などを聞いているらしいな? いや、恐ろしいものだ、記憶というものは。産まれたあとにそれが、蘇らなければいいのだが」

「そんなっ、ひどいっ。何もかも、わたしが悪いように言わないで!」

「だって、真実だろ? 俺はまだ何をするとも言っていないし、あなたが勘違いして一人で騒いでいるだけだ」

 やれやれ、これだからお姫様は。

 そう揶揄するイブリースの言葉にアンリエッタは顔を真っ赤にしてしまう。

 この爪と牙でその喉元を噛み切ってやりたいと怒りと募らせるが、早合点が多いと言われたらそれは否定できない。

 今回だって、子供のことを一番に考えていればこんな行動にはでなかったはず。

 自分で理解すると、赤面して俯いてしまった。

「もう、いい‥‥‥。信用と信頼の差も知らない世間知らずに語る言葉はない。その髪をくれ。嫌なら毛でも、その尾でもいいぞ?」

「はああ? まさかっ、この尾を根本から切断してマフラーにでも‥‥‥なんて極悪な!」

「違うっ! あなたの複製を作るんだ」

「ふく‥‥‥せい?」

 聞きなれない単語に、アンリエッタはきょとんとしてしまう。

「それをどうするつもりなの?」

「そっちに死んでもらうんだよ。こっちを生かすためにな」

「何をどうするつもりですか、賢者の秘儀でもあるとでも言うのですか?」

「ああ、そうだな。だから、殺すんだよ。そうすれば、あなたの死体ができるだろう?」

「なんて残酷な!」

「おや、どこの誰かな? 子供を宿したまま、自決なんてしようとしていた母親は?」

「くっ‥‥‥」

「命の定義は様々だが、その子供を救いたいはずが、自分の意地だの誇りだの、王国の誇りだの。そんなつまらんものに左右された挙げ句に簡単にぶれるなら公子妃補様。少なくとも、あなたは母親としては失格だ。貴族の令嬢としては優秀かもしれんな?」

「理解出来ません」

「あなたを生かすために、俺にできるのがそれだというだけの話だ。」

「まあ、いいからさ。この短剣で、背中から下の腰辺りまであるのを切ってくれ‥‥‥」

「そんなに長く? ここまで伸ばすのにどれだけかかったと」

「いるんだよ、そんなに短く、な。本当なら、あなたの腕一つは必要なのさ」

「腕‥‥‥」

「代わりになるものを考えている。思いついたのがそれだ。他に妙なものを混ぜるとそれはそれで劣化しやすい。一番良いのは他にもあるけどな?」

 じろりとイブリースが見たそこには尾と‥‥‥両耳があった。

 慌ててアンリエッタは頭とお尻を抑えて庇おうとする。

「あ、あなた。だまし、て‥‥‥?」

「いやー本当に分かりやすいな、あなたは。いま一つ足りない。」

「おじい様はそんな非道な真似をするはずがありません!」

「したじゃないか。孫を出汁に使い、利用されたのをもう忘れたのか?」

「まだ――そうと、決まったわけじゃないわ」

「ま、俺には関係ないことだ。それよりも、あなたと公子の、なんだ。その、一夜のことは知っているのか?」

「知りません!でも、ハンナは‥‥‥侍女長は気付いていた? いいえ、それはないわね。わたしは数日、あの方が王国の城外に設営していた天幕の中に居ましたから」

「それが半年前?」

「‥‥‥ええ」

 恥ずかしそうに言うアンリエッタは、遠い目をしていた。それから思い直したように顔を上げて質問する。

「それで、どこまでの長さが必要ですか?」

「ん? ‥‥‥できるなら、その高くまとめて欲しいものだが。出来るのか?」

「あなたが、嘘つきかどうか。この髪が真実を教えてくれるならー」

 それもまた、安い物。

 アンリエッタはポニーテールにするように髪を高くまとめあげた。

「すまんな」

 その一声と共に、長年伸ばしてきた髪の重さを失い、心のどこかに空虚な穴が開いたような気もするアンリエッタだった。

「さて、これで作る。あまりいい気はしないものだから、見ない方がいいぞ?」

 そうイブリースはアンリエッタに伝えるが、少女はふんっと鼻を鳴らした。急かされているようで、イブリースは面喰ってしまう。

「今更、どうしろというのですか。ここまで来て、見ないふりも出来ないでしょう‥‥‥」

「存外、母親というものは強い生き物なのかもしれんな」

「何ですか、それ。やるならさっさとやりなさいよ。最後まで見届けてあげますから」

 と、呆れられて苦笑していた。

 そして、その作業はおぞましくも暗澹たるものだった。


 ☆


「な? 見ない方がいいと言っただろう? そんな吐くまで我慢しなくてもいいのに」

「だって! そんな血なまぐさいものだなんて。自分が卵から産まれてくるなんて思わなかったわ!」

「だから、見るなと注意しただろう。聞かないからだ」

「聞かないからだ、じゃないわよ。そんな、禍々しい儀式だったなんて! おまけに生まれたままの姿なんですよ、恥ずかしいったら‥‥‥」

 この変態、と毒づかれ睨まれて彼は、アンリエッタに冷ややかな視線を向ける。

「卵じゃなくてあれは光の繭のようなもの‥‥‥で、すまんが脱いでくれ」

「何ですって! 短剣で刺されたいの?」

「違うっ、勘違いするな。先に、あなたの部屋への扉をつなぐからな。必要なものを抜き出せばいい」

「脱ぐってどういう意味ですか! それに抜き出すと言っても屋敷に誰かいたとしたら‥‥‥」

「そんな問題、どうにでも出来るんだよ」

「要領を得ません」

 いまひとつ、イブリースの言うことは要領を得ない。

「扉といっても、ここは世界の狭間。なら、何も表から行くことはないだろ? 箪笥の裏側から行けばいい。あちらの闇はこちらよりは明るいのさ」

「明るいってどういうこと? 闇ってここも闇じゃない」

「まあ待てよ。いまつなぐから」

 だからな、ほら。

 と、アンリエッタの住んでいた離宮が眼前の空間に映しされる。

 意外にも、そこには帰国したはずの臣下たちやハンナたちがちらほらと見え隠れしていた。

「あの子たち! 王国に戻ったんじゃなかったの?」

「叫んでも聞こえないよ。やはり、戻っていたか。仔細を知りたいところだが‥‥‥」

「しばらく、様子を見る、というのは無理なのですか?」

「いや、それもいいんだが。俺はさっさと仕込みたいんだよ。死体を、さ?」

 そう言われてアンリエッタは目の前に横たわる、『殺された』、自身の遺骸を見下ろした。

「それで服だがな、案内してくれ。あなたの衣類がある部屋に」

「案内ってどうすればいいの?」

「普段歩くように、考えればいい。そうすれば、景色が変わる」

 景色はアンリエッタの指示によって彼女の衣服があるクローゼットに移動する。

 イブリースはその景色にいきなり手を入れて、中にあった一着を見事に取り出してみせた。

「凄い‥‥‥」

「向こうから見たら、いきなり衣服が消えたように見える。あくまで、俺たちの存在は映らないんだ。便利だろ?」

「これで、その食糧や武器もかすめとったんですね‥‥‥」

「ま、ちょっとした盗賊の気分だ。ほら、どれにする? 自分で選ぶがいい、ただし、身をこの空間から離すなよ? 出過ぎると、この異世界から放り出されるぞ」

「そうなるのは嬉しくないから、気を付けるわ」

 それならば、と旅行用のバッグをいくつかとそこに、普段着、ドレス、その他諸々。

 これから旅になるなら、と何度か経験している‥‥‥何がいるのかしら?

 頭を捻るアンリエッタにイブリースは苦笑した。

 どうやってこれを運ぶつもりなのかと、悩んでしまうくらいの量と金貨や宝石類。

 公的な身分証を手に、アンリエッタは「まあこの程度かな」と、満足げに呟き、荷物の影に隠れて「彼女」に、自分が着ていた服を着せていた。

 着替えを終わらせると、イブリースは「彼女」の身体を抱き上げるとその脇に深々と短剣を差し入れた。

 遠慮なく、容赦なくまるで狩りで狩った獲物を解体するようなその冷徹さに、アンリエッタは薄暗い罪悪感を、自身の心に感じていた。

 これで自分も、殺人者の仲間入りだとそう思った。

 イブリースはついでにと、何かを空間から取り出す。

 それを見て、アンリエッタは驚きの声を上げた。

「あなた、それは、何‥‥‥同じあなたがいる」

「俺だよ。この時の為にな、用意していたのさ」

「あなた、わたしと相対自殺させるおつもりですか?」

「かもな?」

「そんなっ、不名誉な死はいやっ!」

 アンリエッタの制止は遅かった。

 吹き出す血を浴びないように、イブリースは自身の複製の喉を掻き切っていた。

 不思議なことにその血はあるところで止まり、そこから先には流れて行かない。

 イブリースは二体の複製し、死んだそれらをまだ誰も来ていないであろう部屋に放り出していた。

「なぜ? あちら側では、さもいま死んだかのように見えるわ‥‥‥」

「まあ、それを狙ってみたんだ。俺は誘拐しあなたを殺害して自殺した。あなたはこれで自由を獲得したわけだな。さて、これからどうする? その髪の色はプレゼントだ」

「え? どういうこと、あれ? まさか‥‥‥」

「蒼い髪の人間はいないからな。黒くしておいた。まあ、青みがかった黒だが悪くはあるまい。さて、次はどこに行きたい?」

「どこにって言われても、逃げるしかないわ。そうじゃない、イブリース?」

「逃げるね。まあ、正解だな。とりあえず、どこに行こうか決めようじゃないか」

「なるべくなら、公国や王国から離れた土地が良いわ。この子のためになるような、そんな場所がいい」

「とはいえ、俺はさっさとおさらばするぞ」

 しかし、その意志はアンリエッタの笑顔によって、否定される。

「まさか、世間知らずな無知な小娘を放りだしたりしないわよね? 賢者イブリース様は?」

「なっ‥‥‥」

「さあ、よろしくお願いしますね? イブリース様?」

 その問いかけにイブリースは否定の言葉を――出せなかった。




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