名誉ある自害
アンリエッタはしばらく悩んでみた。
耳を澄ましながらどこか所在なさげに尾を服裾から覗かせてそれを左右に振る。
尾は、時には彼女の不安を示すかのように、膨れたりしぼんだりと、その大きさで感情を表していた。
なんて分かりやすいんだ。
これは良い、機嫌を知ることのできるものを見つけた。
これから先の会話の中で、なにかに役立つかもしれない
イブリースがあまりにも、興味深そうに見るから、アンリエッタは視線に気づいてしまう。
思案していた少女はイブリースを不機嫌そうに睨んで尾を隠してしまった。
「あまり見ないでいただけますか? 見世物ではありませんので」
「いや、すまない。なかなかに会うことが無いからな、獣人には‥‥‥」
あれ、そうなの?
公国にも、王国にもたくさんいるのに。
アンリエッタはそう思った。
普段から身の回りの世話をしていたのは全員、獣人だった。
公国でもどこにでもいる存在だったから、逆にイブリースの発言は面白く感じてしまう。
少女は、イブリースが住んでいた世界に興味を持ってしまう。
「枢軸には、いなかったのですか? その、イブリース‥‥‥でいいのかしら?」
「好きに呼ぶがいいさ。あいにく、ライオットという名は持っていないがな?」
「まあっ、意地悪な人!
素知らぬふりをすることくらい、礼儀でしょう?」
「そうか? 俺はここで話を聞くとは言ったが、さらしたのはそちらだぞ? しかも、短剣を投げかけてこようとしていたじゃないか。子供がいるから、助かりたい。そう言うから連れて来たのに」
俺は悪くないのにとイブリースはぼやいた。
「それは、母親なら誰しもがそう思うはずです! あなただって結婚されて奥様がいたなら理解できるでしょう?」
「奥様はいたが、理解はできんな」
「なぜですか、結婚してすぐに側室になれとは言わないでしょう? それほどまでに早く離別したのですか?」
イブリースはいや待てよ、そこまで入り込んでくるかと思い、不機嫌な顔をする。
ずけずけと、遠慮のない公子妃補様だ。
聡明そうで世間知らず。
それでいて勝気で間が抜けている。
おまけに妊婦だ。
この先、一人でどうやって世の中を渡って行くつもりなのか。
そこが、性分なのか、心配になってしまった。
「なあ、公子妃補様。これから世間の冷たい風と戦いながら生きて行くんだ。覚えておきな、相手との距離を踏み越えてくるのは止めたほうがいい」
「冷たい、風? それはどういう‥‥‥」
「だから、あなたはこれまでは支配する側だった。これからは、支配されそして、逃げる側だ。態度も考えも変えないと子供は育てられんぞ?」
「それは‥‥‥」
アンリエッタは言葉に詰まってしまう。
世間はそんなに甘くない。
そんなことは何となくだが、知っていた。
だから、こうして逃げてきたのだ。
「考えなしに生きていくつもりだったのか?」
「違います! 子供の為ならば‥‥‥身体を売ってでも、どうにかしようというくらいの考えはあります」
「考え、な。しかし、まだ十六だったか? 身体を売ることがどれだけ辛いかは、知らないだろうな」
「‥‥‥」
手配書や賞金がかかれば、あっという間に人間は豹変する。
態度を変えて、それまでの関係をひるがえして敵に寝返るものだ。
イブリースは自分の体験からそう忠告した。
俺は主君殺し。
あなたは王国への反逆者だ、境遇が似ていると思わないか?
イブリースはアンリエッタに教えていた。
生き残ることは、追われる身になればなるほど、難しくなるぞと。
「まず産むまでにあと二年。その間になんとかすれば‥‥‥」
「無理だ」
「なぜそう言い切れるのですか‥‥‥」
「子供がいると知れば、もう一人のイブリースは、必ずその子を殺そうとするからだ」
「それは、あり得るかもしれません」
少女はうつむき、顔を暗くする。
ただでさえ暗い空間に、更に暗鬱な雰囲気が混じっていた。
「あり得るのか? どうしてそう思う。仮にも、彼は父親だぞ?」
「あの方は帝国の人間になるのですから。そして、公国も帝国に寝返るでしょう。この子が目ざわりなのは理解しています‥‥‥。でも、すぐには来ないと、そう思ってもいるの。彼はまだ戦場で、ここからははるかに遠い場所、その間に一度、王国へ戻れればより遠くへと逃げる方法もあるかもしれない」
「それは、やめたほうがいいな。ついでに言えば、いまのあなたは誰一人味方がいない。そう、考えるべきだ」
なぜですか?
きょとんとしているアンリエッタは、不用心にも尾を出していた。
それは力なくしおれていて不安を示していた。
その程度のことくらい、分かれよとイブリースは思うが、相手はまだ十代。
仕方ないかもな、と自分に言い聞かせて答えを返してやる。
「王国はすでに知っているからだよ、公子妃補様。公国の裏切りも、帝国との癒着も、イブリース公子の婚約破棄も、だ」
「それは早計ではないでしょうか? もしそうなら、わたしを戻らせるようにするか。あの場にいた家臣たちに大公夫妻を討つように命じたはずでは?」
「俺が王国の国王なら、それはしないね。もっと賢くやる」
「賢く? なら、婚約破棄なんて手紙は意味がないではないですか。あれを読んでわたしはイブリース様の真意が知りたくて、でも公国は危険だから家臣を戻したのに」
だからさ、そこだよ。
そう言い、イブリースは思わず笑ってしまった。
「なにがおかしいのですか!」
「だからだな、王国は貴重な戦力をあなたに、あっけなく奪われたわけだ。これまで、護衛としておいて置けた、ある意味、監視であり、大公夫妻の喉元に突きつけた刃を」
「えっ‥‥‥?」
「理解できないか? 公国の公宮のすぐそばに自国の精鋭をおいておけたんだ。これまでは」
「そんな兵はどこにも――まさか、わたしの家臣たちがそうだとでも‥‥‥?」
「ああ、その通りだ。監視や、その気になれば大公夫妻の命も狙えるとみせていたんだよ。だが、その無言の圧力はあっけなく瓦解した。それをしたのが王国の姫で、公子妃補だ。王はさぞ、怒り狂うだろうな」
「待って! なら、今回のことはおじい様も既に知っていてそれでいて、帝国とのイブリース様の婚儀を黙認していたと、そうあなたは言いたいの?」
「もし、俺が国王なら、そうする。手紙が届き、公子の婚約者である孫娘が家臣に相談する。それはそのまま王国へと伝達されるわけだ。手筈は整った、やることは一つしかない。そうだろ?」
「でも、それはわたしの命令が無ければ、あの者たちが動くことはないはず‥‥‥」
「だから、孫娘に言わせるのさ。報復したい、と。そして、公国を帝国と半分に分割する。邪魔な大公夫妻は殺せばいい。命令を下した犯人は‥‥‥?」
「わたしっ?」
「かもしれんな? そんな筋書きならまあ、納得がいく」
イブリースは意地悪そうに言ってやる。
利用されただけの女はどんな気分かな、と。
「じゃあ、戻したみんなが危ない‥‥‥」
「逆だ。あなたが危なくなるんだよ。連中は既になにか命を帯びていたはずだ。でなきゃあ、俺のあれだって‥‥‥」
都合がよすぎる。
あまりにタイミングよく、衛士長が駆け付けてきた。
普通はああは、うまくいかない。
つまり、自分も王国や公国の駒の一つにされていた。
そう考えると恐ろしい国王だ。
イブリースはアンリエッタの祖父に畏怖を感じていた。




