虚空の世界
この虚空、世界の狭間にくると酔ってしまうのもいるし、下手をすると幻覚を見たまま、眠り込んでしまう者もいる。
現世に戻るまで、彼女の正常な意識が戻らなければどうしようかと思っていたからだ。
これでまともな話ができるな。
そう思ったイブリースの考えは、しかし、甘かったことを彼は思い知ることになる。
何故なら、アンリエッタはさっき呟いたことまでしっかりと思いだしていたからだった‥‥‥。
ゆっくりとどこかから取り出してきた数本の短剣が、イブリースの目に入る。
「なあ‥‥‥なんだ、その短剣は? そんな本数、どこに隠して、おい」
「動かないで!」
「動くなと言われても、まさか射殺す気じゃないだろうな」
その問いに、アンリエッタは不敵に微笑んでいた。
自分の大事な心の内を知られたのだ。
生かしておく気にはなれなかった。
丁度、ここは世界の果て? だという。
なら、この目の前にいる男。
あの衛士長が主君殺しと叫んでいた犯罪者を‥‥‥殺してもいいんじゃないかしら。
そして、自分も死ぬまでここで過ごしても。
そう思い始めていたからだ。
「さあ、どうかしら。でも‥‥‥腕は悪くないですよ? あなたの急所を貫く程度には、ね?」
「参ったな。なにをどうすれば、そんな考えに至れるんだ。せっかく助けてここまで連れて来たのに」
「助けた? そうかしら」
「だが、あなたが助けてくれと言ったんだぞ? ああ、そうか。まだ酔っているのか‥‥‥」
「酔っている? 何を言っているのですか? あの矢のように、魔法で絡み取れば‥‥‥わたし、負けるかもしれませんよ。あれ‥‥‥やだ、どうしよう。子供がいるのにー?」
「あのな、いいか? よく聞いてくれ。ここに初めて入った人間は、酔うんだ」
「‥‥‥酔う?」
「そう、心の中にある想いや、過去の記憶にさいなやまされるのさ。あとは、ちょっとな」
「なんですか? 言いたいことがあるなら、言えばいいではないですか!」
「その喜怒哀楽の激しさ、どうにかならないのか‥‥‥」
イブリースはため息をつく。
いままさに、アンリエッタは酔っているのだ。
自分でも気づかない、普段は眠っている自分が目覚めてくる。
それは凶暴性だったり、謙虚だったりとさまざまだが。
「あーあ‥‥‥だめだ、こりゃ。あんたの眠っていた自我は、どうやらそれ、らしいな。公子妃補様‥‥‥」
「それ? 何を言っているの、あなた。それ、とは何ですか?」
「だからな、その強気なとこじゃないぞ? 頭上と腰の後ろをさ‥‥‥探ってみな?」
頭上?
腰の後ろー?
お尻?
そう言えば、さっきから何かムズムズするような。
足元がしっかりとしてきたような。
頭の上で何かが動いて、音がより聞こえてくるような‥‥‥?
「えっ! えええっ?」
アンリエッタは自分のそれを触って確認し、短剣に映し出すようにして見てみる。
そして‥‥‥驚愕の声を上げていた。
耳と尾が‥‥‥生えている?
アンリエッタは、現実が受け入れられない。
どうしてこんなことになったの!
そう心は叫んでいた。
「大丈夫だ、ここを出れば元に戻るさ‥‥‥多分。たまにいるんだよ、過去から受け継いだ血の濃さがそうさせる。あんた、本当に蒼狼族のお姫様だったんだな? 見るのは初めてじゃあないが、まあ、綺麗なもんだ」
「大丈夫なの、本当に? わたしは人間のままで、こんな格好を旦那様に見られたら!」
「頼むから、落ち着いてくれないか? ここを出れば、人間に戻るから、な?」
「本当に?」
「ああ、本当だ‥‥‥多分。それにな、あなたがいま、酔っているんだよ。頼むからその短剣を閉まってくれないか? どこに携行していたんだ、まったく‥‥‥」
「すいません‥‥‥」
シュンとなったアンリエッタはまた可愛い側面を見せていた。
やれやれ、ハラハラさせられるぜ、とイブリースは短剣をしまったのを確認して、地面に腰を降ろした。
まだ立ったままのアンリエッタを見上げて、隣に座るように手で地面を叩き、促してみた。
「あんたも座ったらどうだ?」
「だって、あなた‥‥‥主君殺しなのでしょう? そんな人の隣になんて怖くてー‥‥‥」
「次から次へとよく思いだすな、あんたは」
「だって、ここに来る前のことを思いだしたらつい」
「あのなあ、俺は妊婦になにかするほど、悪い人間にはなりきれないよ。危険だと思うなら、その短剣で狙いながら距離をおいて座ればいいだろう? 俺が動くより先に殺せるぞ?」
「そんな簡単に‥‥‥行かないでしょう。あなた、魔法だって使うじゃないですか」
「いや、それはないよ。俺は魔法が使えない。」
「え? だってあなたさっきまで使っていたではないですか」
「ああ、それな。これだよ」
「これって」
イブリースは両手の指輪をかざして見せた。
すべての宝石は砕けていて、跡形もなくなっていた。
「魔導石だ。魔法を封じている石だな」
「それは知っています。わたしもほら」
そう言い、アンリエッタ自分の片方の手をかざして見せた。
ああ、確かに同じものだとイブリースはうなずく。
だが、それがどう作用するのかアンリエッタには理解できていなかった。
「あんた、蒼狼族なのに魔法は使えないのか?」
「使えません。ですから、魔法が何かも理解していません」
「そういうことか‥‥‥魔法を使うにはだな。まず、魔力を集めることから始める。その次に集めた魔力を操る過程に移るんだ。俺に魔法は使えない、というよりは魔力を集めることができない」
「へえ‥‥‥」
「理解できているのか? この空間を開けるのには魔力と、媒体がいるんだよ。媒体ってのは血のことだ? だから、時間がかかったろ? すぐに何かをできるような術はないんだよ」
「本当‥‥‥ッ」
「その耳で聞けばいいだろう? 嘘を言っているかどうか。聞き分けられるはずだ、蒼狼族なら、な。心臓の音でもわかるだろう?」
「分からないわよ、こんな体験、初めてなんだから。人殺しなんて怖いわ‥‥‥」
人殺し、か。
まあ、それは嘘じゃないからな。
否定はできない。
イブリースはあたまをかいた。
「何を知りたい? それに答えることで、真実かどうか見分けてくれ。それが、俺のできる唯一の証だ」
「真実‥‥‥? では、なぜイブリースを名乗るかを、知りたいです」
そこからか?
長い話になるなー‥‥‥どこから伝えたものか。
イブリースは過去を振り返るのだった。




