公子の思惑
婚約者が住む場所は城の奥にある。
離宮と呼ばれる場所に、彼女は王国から付いてきた部下と共に住んでいた。
遠い戦場と、離宮をの間にあって、二人の恋人たちに遠距離恋愛の辛さを、紛らわせてくれるもの。精霊の力を借り、宝珠に映り込むすべての景色と音を双方向で伝えることができる。それがこの宝珠での会話だった。
公国での、時刻はまだ七時過ぎ。公務が始まるのはせいぜい、九時過ぎからだが、それ以前に仕度というものがある。婚約者の、イブリースの両親と顔を合わせ朝食をする時間も必要になる。
いつものことながら、生真面目な彼女は朝五時からは起きているのだ。
最も、夜行性の狼の血がそうさせているかもしれないが。
鈴の音が鳴る。
彼女が暮らす離宮の執務室に、もう片方の同じ形をした宝珠は設置されている。
持ち歩きできるものだが、寝室に持ち込んだことは聞いたことがない。
呼び出して、いつものようにしばらく待たされるだろうと思い、イブリースはベッドから出ると、応接用のソファーにその身を沈ませた。
そこからならば、ベッドは背後になっていて映り込まない。ラーミアのことを悟られるには、まだ少し時期が早かった。
「……イブリース? どうしたの、こんなに朝早く。ちょっと待ってください」
と、慌てたように彼女が宝珠の向こうに姿を表した。
「……半端者が」
まだ髪型を整える前だったらしく、急いでまとめるものを探しに行ったらしい。
あちらには見慣れた彼女の書斎の一部と、女性にしては読書家な彼女の集めた書棚が映り込んでいる。
「お待たせました!」
慌てたのだろう、息を弾ませて彼女が再び顔を覗かせた。
青い髪、すらりとした長身、狼を思わせる切れ長の瞳の色は緑。そして、愛おしい恋人と間接的にだが触れ合える喜びを、その瞳に讃えている。
しかし、彼女には尾がない。頭頂部にあるはずの獣耳もない。たてがみすらもうなじには生えていない。
おおよそ、獣人を名乗るに必要なすべてがそこには欠落していた。だからイブリースは呼んだのだ。半端者、と。
「あれから半年ほどか、アンリエッタ」
「え? ええ、そうね。あなたが戻られてから……それくらい、かしら」
アンリエッタは長い手で指折り数えて返事をする。その指先にも、鋼すら切り裂く爪や、頬にあるはずの牙も見当たらない。イブリースははあ、と気付かれないようにため息をついた。それから、短く、本題を切り出す。
「君の顔が見たかったんだ。俺も戦場で敵ばかりを相手にしていると、心が辛くなる」
「それは、何というか。お疲れ様です。あなたの勇猛さはみんなが知っているわ。それはわたしが誇らしくなるほどよ」
それは何の飾りもない言葉だ。純真な尊敬の念を、アンリエッタは伝えてくれる。褒め称えてくれる。お世辞などまったく介在させず、本心からこちらに好意を向けてくれる。
「ありがとう。アンリエッタ。おまえのその言葉だけで、これからの戦場を切り抜けて、勝利を手にすることができそうだ」
「あなたならできます! 精霊剣士としても名高いあなたならば! わたしも待っています!」
だから頑張って欲しい。
その言葉と期待が、いまはすさまじく重苦しいものに感じてしまう。
なら、成果を出せ。そう叫びたくなった。
自分たちの未来のためには、子供がいるのだ。二人の血を引いた子供が。
しかし、半年経過しても、その報告はやってこない。
それどころか、ここ数か月の間に、帝国から婚約の誘いと共に秘密裏に下賜されてきた皇女のほうが……どうやら身籠りそうな予兆さえあった。
「グリムガルの国王殿から与えらえた時間がもう少ない」
「……わたしの王国からですか」
「そうだな。帝国との戦いを早期に納め、おまえと結婚する。その期限が近い」
宝珠の向こうで恋人が言葉を詰まらせる。返答に困っているような素振りを見せた。
「わたしは、あなただけを。イブリースだけを待っているわ。国王陛下……おじい様のそれはまだまだ二年も先のことじゃない。先にあなたと結婚すれば、国王陛下も口出しできないわ。だって、夫婦になるのだから」
「それもそうだな」
とりあえず、笑顔を取り繕った。そして、考えがある、と言葉を続ける。
「私達二人にとって、良い結果になるようにずっと考えてきた。詳細は手紙に記してある。読んでくれないか」
「あ、えっと……手紙、ですか。分かりました、読んでみます」
「ああ、返事はそれからでいい」
「あ、待って。イブリース? あなた、まだ話があるの」
「すまない、そろそろ朝の会合がある」
「そう……分かりました。御武運を」
そう言って、通話は終わった。
どうか読んでくれ、と願う。その手紙を読めば、賢い彼女のことだ。
正しい判断をして、公国を去ろうとするだろう。そこを――襲って人質し、帝国に差し出せばいい。
あとは、帝国の皇帝を目指すだけだ。ラーミアと共に。
イブリースの顔には、酷薄で残忍な笑みが張りついていた。