命の懇願
イブリースはそれを目にして思わず呆れてしまう。
これで蒼狼族の姫君か?
あの勇猛果敢で鳴らした種族の女が悲鳴を上げるなんてなあ。
イブリンは心の中でそう呟いていた。
なんて、情けない姫君だ、と。
「少しだけ待ってくれ。あと数分もかからない。術を発動させようにも、触媒が少ないから、できないのだ」
「触媒って何? それっ、あなた‥‥‥腕に矢が!」
気が動転していてそれまで見えていなかった。
イブリンの片腕を矢が貫いていることに、アンリエッタは初めて気づいた。
多分、これは自分を引き寄せたときのものだろう、そう思い至るまでに時間がかかる。
あの時から、彼は片手で剣を振るっていた。
そう思いだし、言葉を失ってしまう。
「いいんだ。これは自分で当てたんだよ。血があると、その分、術が成功するまでに時間を短くしやすい」
「術って?あなた、精霊剣士でも無いのに何ができるのですか? 魔法が使えるわけでもないようだし‥‥‥」
「まあ、魔法は――無理だね。あれは精霊剣士と似ているが、精霊や世界の根幹を操るものだからな」
「なら、一体なにをするつもりなのですか」
「さて、何かな? 俺は言うなれば、退魔師、かもしれんな?」
退魔師?
どこかでその単語を耳にした気がする。
古き数千年の歴史を持つ魔導師の家系。
あの北の大陸にあるダイナル王国の王族が使うという法術。
異界から召喚した妖魔を操り、またこの世に災いを為すそれらを退治するもの?
「あなた、じゃあ‥‥‥まさか、ダイナルの王族なの? 王族がここで何をしているの?」
「いや、まったく無関係だ。すまんな」
「ほんっとうに、要領を得ませんわ! 説明しなさいよ!」
「だろうな、俺もそう思うよ。ここから抜け出たら、関りたくないと思っている。そう、この公国と王国の揉め事には、な」
「もう、何なのよお!」
アンリエッタは追加で打ち込まれてきた弓矢に悲鳴を上げた。
イブリンはそれを見て、彼女を土壁奥へと引き入れる。
そろそろ、か?
彼の左腕から流れ出る血だまりが、ふと、ポコンと温泉の泉のように沸いた。
それは影を伝い、暗闇の中に新たな暗闇を作り上げていく。
向こう側には、薄暗く、銀色と金色の稲穂のようなものが交差する不思議な世界があった。
「これは‥‥‥、何ですか、イブリン?」
「まあ、見たことはないだろう。言うなれば、世界と世界のはざま行き来するもの難しいが、慣れればそうでもない」
「世界のはざ、ま‥‥‥?」
「滅多には行けない、そんな場所さ」
「えっ」
さて、連中はどうかな? イブリンが土壁の向こうに気配をやる。
そして、聞こえてきたのは意外な人物の声掛けだった。
「おい、イブリン! いや、イブリース、貴様っ! 困っているからと聞いて憐みをかけてやれば裏切りかッ? まさか枢軸連邦から手配書がまわって来るとはなー!」
「イブリー、ス? え、えっ?」
「あ、気にしないでくれ、公子妃補様」
「おい、聞いているのか、イブリース! 公子様と同じ名を持ちながら、その名声を汚しかねないっ‥‥‥この主君殺しめ!」
その声はあの衛士長のものだった。
彼は、もしイブリンが、いや、イブリースと呼ばれた彼が見ることができたら驚いていただろう。
顔を真っ赤にして、怒り狂っているのだから。
そしてまた、十重二十重に衛士たちが彼ら、イブリンとアンリエッタを取り囲んでいた。
「おい、イブリースっ、貴様、聞いているのか? しかも、公子妃補様まで巻き添えにするとは‥‥‥なんたる悪人だ、お前は!」
「聞こえているぞ、衛士長殿? しかし、酷い言い方だな! 俺を雇ってもらう時に、わいろをあんたには渡しただろう? それをもって、チャラにしてもらいたいもんだね」
「ふざけるな! わたしはわいろなど貰ってはおらん!」
「嘘つけよっ、金貨二十枚渡したぞ!」
どうでもいいよ、あんたのことなんか イブリン? つまらない名前はさっさと捨てよう。イブリースと呼ばれた彼はそう苦笑していた。腕からの出血は術が完成したからなのか。
全部が体内に戻り、その傷跡も綺麗に塞がれていく。
アンリエッタは、血が傷口を経由して戻って行く様をみて、驚きを隠せないでいた。
そのためか、聞こえてきた「イブリース!」、その一言の重要性に最初、気付けなかった。
二度目、三度目でようやく、
「イブ‥‥‥リース、様? まさか、魔法で変身でもした。まさか、来て下さった? じゃあ、あの手紙は‥‥‥」
そう、隣にいる彼に向かって叫んでしまったほどだ。
だが、イブリースと呼ばれた彼は寂し気に首を横に振った。
「すまん、まったく無関係の別人だ。この国は俺を負っている枢軸連邦国とは敵対しているから、身を隠すには良かったのだ。しかし、さすがに偽造した身分証がダメだったのかもな。あの偽造屋め‥‥‥買い叩いたから、手抜きしたな」
「手抜きって、でも、あなた本当にイブリース、なの?」
「名前だけは、そうだな。だが、あなたの求めている男性とは違うよ」
「違う、んだ‥‥‥そう、ですか‥‥‥」
「そんなにショックを受けなくてもいいじゃないか。さて、俺は行くとしよう。すまなかった、アンリエッタ様。どうか、イブリース公子とうまくいくことを祈っている」
じゃあな?
そう言い、彼は影に開いた異界への入り口へと足をかけた。
その時、アンリエッタはイブリースを呼び止める。
振り向いてみたら、そこにいた狼姫はまた大粒の涙を浮かべて懇願してきた。