涙の訴え
なんだ?
勘弁しろ、いまさらながらに泣くな。涙を見たいから教えたわけじゃないんだぞ? 女の涙は剣にも勝る武器だと、イブリンは目をそらすのに必死だった。
そして、少女は蒼い髪を揺らしてイブリンに詰め寄っていた。
「賠償金も取れない、夫となるべき存在は年下の若い女に奪われる、王国に戻っても待っているのは死罪ですよ! あんまりじゃないですか!」
「あんまりと言われても。第一、なんで死罪なのだ? 王国から罰せられるとでも言うのか?」
「負け犬に未来はあたえない、悔しいのであれば、取り戻せ。それが、王国の法律だからです」
「そんな無茶苦茶な‥‥‥。男女の仲を論点にするのはおかしいだろう。イブリース公子の子供ができないと言い逃れるそれは‥‥‥言い訳じゃないのか?」
「だとしても! 何も取り返せずに戻るのは王国では汚名を着たのと同じ事になります!」
「はあ‥‥‥そうかそうか」
蒼狼の強さの秘密はそれか。
だが、今回のは負けでもなんでもない。
ただ、あなたが騙されただけではないか。
まあ、なんとなくだが家臣を先に戻した理由が分かった気がした。
主と共に戻せば同罪で死罪になる可能性があるから、これまでの忠義を誉めて暇を出したんだろう。
優しくて不器用な女だ。
そう、微笑むしかなかった。
「なあ、公子妃補様」
「うぐっ、なんですか‥‥‥」
「泣くなよ。あなたは夫が欲しいのか、賠償金が欲しいのか、その年下の浮気相手に復讐したいのかどれなんだ?」
「どれって、どれなんだろ‥‥‥」
「あのなあ、それをまずは決めないとだめだろう。しかし、公子は俺と同年代のはず。あなたより年下の女とはな‥‥‥私文書で適当にすます辺り、おおやけにはしたくない相手。奉公見習いの侍女か、村の娘にでも手を出したか? それなら、少しばかりの金を与えれば相手の親も黙るだろうからな。まあ、その割に王国との内縁を捨てる、その理由の意味がわからんが‥‥‥」
「あなたには関係のない話です。もうどうすればいいのか、分からなくなってきました。情けない‥‥‥」
「俺はあなた様の部下ではないが、大公陛下の家臣ではあるからな。間接的には部下になるわけだ」
「だからなんだと?」
「とりあえず、涙をおさめてくれないか? 助言をするとすれば、側室に下がるか、愛妾でなりますと返信すればこの離宮は無理だが、城のどこか一角には住ませてもらえるだろう? 子供もいないのであれば、権力闘争に巻き込まれることもない。王国側もあなたが公子の妃の一人ではあるのだから面目も保てるし、公国もそうそう悪い扱いはせんだろう」
アンリエッタはイブリンを物憂げな瞳で、それでいてまだあきらめきれない。
そんな感じで見あげていた。
引くに引けない、女の意地。
そんなものが見え隠れしているそれは、一歩間違えれば破滅へと歩く道を開拓する。
後々、どこかで死んだと聞いてはそれも後味が悪いものだ。
冷や汗を額ににじませながら、困っている彼にアンリエッタはなら、と口を開いた。
「相手が帝国や枢軸の上級貴族なら、話はどうなりますか!」
そう言うと、アンリエッタはどこからか取り出したあの手紙をイブリンに押しつけた。
おいおい、こんな代物‥‥‥見たとしれたら俺の階級なら首が飛ぶ。
そう思いつつも目はその文章を追ってしまう。そして、幾つかの問題に気づいた。
「これは、男の手紙ではない」
「‥‥‥はっ? それはあの人の筆跡ですが」
「だから、筆跡どうこうではない。内容だ。男でまだ心があるなら、なくてもそうだが。保身に走るものだ。相手の名前など書く必要がない。それを書くなら私的な手紙ではなく、正式な婚約破棄の文面に何人かの同意のサインを添えて送りつけるはずだ。たとえ身内でも、な」
「そう‥‥‥なの?」
「第一、身内の婚約破棄であっても当人同士で済ませられる範疇を越えているぞ。しかも、そこに帝国の皇女とはまた‥‥‥明らかな同盟破棄、の意思が見えている。こんな私文書を出す馬鹿な男がいるものか。この婚約をよく思わない者の、嫌がらせにしか見えんな」
「なら、まだイブリース公子の心は‥‥‥?」
アンリエッタの表情に一筋の希望の光が差し始めているのをイブリンは感じていた。
同時に、不安の底に叩き落とすような発言がでて彼女は闇の底に沈んでしまう。
「この文書がもし、公子の筆跡で押印までが本物なら。これは公国そのものが画策し、王国との同盟の転覆を帝国と共に企てた。そう考えた方が良い」
「つまり、どうしろ、と?」
「つまり、こうしろ‥‥‥と、言うんだ!」
そう、イブリンは叫ぶと腰の剣を引き抜く。
と、同時にアンリエッタを引き寄せて自分の後方に引き込むと剣先を閃かせた。
木のしなる音や爆ぜる音がして、付近に飛んできた矢が切断されて力なく地面に叩き落とされていく。
その光景を見たアンリエッタは、小さく悲鳴を上げていた。