騎士への誘い
彼は沈痛な面持ちで戻って来た。
少なくとも、アンリエッタには扉を開けた時に目に入ったその最下層の衛士を見てそう思った。
ただ、年齢は少しだけ上のような気がするのに、顔に刻まれたシワというか眉間の頑固そうなシワというか。
顔や首筋のところどころに浮いて見える刀傷の跡が、そう感じさせるのかもしれなかった。
「公子妃補様、大変申し訳ございません」
開口一番、衛士は謝罪する。
アンリエッタはその意味が理解できなかった。
「はっ、え? なにが申し訳ないというのですか」
「はっ‥‥‥上官よりの公子妃補様への、ああ、いえ。上部からの指示は、そこに割くべき人員はおりません、とのことでして‥‥‥」
「えっと、つまり馬車は用意できない、と? そういうことですか」
「はい、そのようなことになります。大変、申し訳ございません」
「そう‥‥‥まあ、そうなるかもしれないわよね」
「はっ?」
「いいえ、なんでもないわ」
「さようですか」
「ええ、そうね。貴方の責任ではないから」
「大変、申し訳ございません」
まるで自分がミスを犯して心の底から謝るような素振りの彼に、実直さを感じてしまってこれでは文句をつけたいけど、つけられない。
そこまで、貴族様として横暴にふるまうように躾けられてきたわけでないし、臣下は家族とともにあれ。
王国の考え方がそれだから、アンリエッタに彼を叱責する気はなかった。
文句をつけるなら、上の命令を下した人間に文句を言うべきで、彼には何の罪もないわけだ。
そう考えると、ここは笑顔ではい、分かりました。
適当に片付けるのが無難だろう、アンリエッタはそう考えて作り笑いをした。
「いいのよ、貴方は何も悪くないわ。ありがとう。もうお戻りになって」
「ありがとうございます、公子妃補様。それでは、失礼いたします」
「はい、ご苦労」
彼はそのままアンリエッタが屋内に引っ込むものだと思ったのだろう。
一礼すると、踵を返して一歩を踏み出そうとし、異常なものを見てしまった。
「‥‥‥は?」
思いもしなかった光景を目にして、思わず間抜けな声を上げてしまった。
テクテクと、自分の横を素知らぬふりをしながら通り過ぎるアンリエッタを見て、唖然としていた。
ここで口を挟む必要はない、そう思ったのに。彼のおせっかいな性分は、思わず声を出していた。
「お、お待ちを!」
「え‥‥‥?」
蒼い髪の少女はどうかしたの?という顔で振り向いた。
イブリンの目に改めて、彼女の容姿が映り込む。
ヒールを履いてもまだ裾が長いそのドレスの一部を掴み折り持ちながら、片脇にバッグを抱えながら、きょとんとした顔でこちらを見ていた。
「どうかしましたか? 貴方に託された任務は、さきほど終わったはずです。さあ、わたしが行くよりも先に戻りなさい」
「それは言われる通りですが、公子妃補様、何ゆえに行かれますか? その先に待っているのは‥‥‥」
公子の将来の嫁なのにその両親は城に入れたくないと、暗に示しているのだ。
これはまともなことではないと、イブリンは思った。
おまけに彼女、公子妃補には家来すらいないというのだから、この事態がまともなわけがなかった。
行けば、悪くて死、良くて離宮からしばらく出られなくする軟禁。
彼女は、あの公宮の主たちから、好まれていことは明白だった。
そんな中に出て行くという選択肢を選ぶ人間なんて、二種類しかいない。
好戦的に行くか、あまりにも愚かな女かのどっちかだ。
少なくとも、イブリンにとって、この蒼い髪の姫は後者には見えなかった。
「考えすぎ、そんなこともありますわよ、衛士殿?」
「発言する許可を頂いても?」
「どうぞ? 既に話しているけど?」
その返事に、イブリンは毒気を抜かれた気分になる。
どこまでも自由な御方だ。
それが、これからしばらくの間、親しい主従関係になる衛士のアンリエッタに対する第一印象だった。
「では、差し出がましいことながら申し上げます。公子妃補様におかれましては、家臣に暇を出されたとのこと。その本意は私めには分かりかねます。しかし、上の人間から割くべき人員がいないなど、公子妃補様、引いては御実家に対する侮辱。この公国と王国との関係性につきましては、不肖、このイブリンめには詳しくはありません。しかし、この扱いはまるで、その‥‥‥」
イブリン、か。そんなにかしこまって、更に片膝までついての上訴なんて、ね。うちの王国の騎士に欲しいほどの堅さ、だわ・‥‥どこで教育を受けたのかしら、この衛士。単なる一兵卒ではないわねえ‥‥‥。
そんなことを頭の片隅で考えながら、アンリエッタは面白そうに彼に問い返した。
「まるでなんですか、イブリン? だったかしら?」
「はっ! イブリン‥‥‥、で御座います。覚えて頂き、光栄です、公子妃補様!」
「声が大きいかなあ? 聞こえたら困るかもよ? まあ、ここから衛士の詰所まで往復十数分。あなたのその少しばかり強張った声はよく届くかも?」
「それは‥‥‥失礼いたしました」
その時だ。
「ねえ?」
そう、耳元で声がした時、イブリンははっとした。
目を上げることは許されない。
視線は常に、足元。
彼女の、小鹿のようなくるぶしがたまにそのスカートの裾から覗くのを見てこれは失態だ。
そう思いながらいた青年は、心から驚いていた。
ほぼ、同じ目線の位置に彼女はいる。
その事実が彼の鼓動を高まらせていた。
これでは顔もあげることすらできない、姿勢も崩せない。
しかし、返事はしなければならない。
思いあぐねてから、彼は返事した。