孤独の公子妃補
コルセットは二度とつけない生活をするようにしよう。
そう決めたのは、仕度を始めて数分した時のことだ。
女は不便だ。
すぼんだボウルのようなキュートな腰つきが良いなんて、それは男の為の視線だ。
やめた‥‥‥ここは王国風に行こう。
アンリエッタは心で決断する。
ありがたいことに、王国では腰を締め付けて胸を強調し、ふんわりとしたペチコートから広がるスカートや羽根飾りがゴテゴテとついた帽子なんて存在しない。
薄い布地は悪だ。
王国の女は柔らかい布地に染め抜いた家紋、そして青や赤や黒の一色の長い巻き付けのワンピースに、ささやかな刺繍。
二枚か三枚の外位をゆったりと巻き付けて、最後に腰帯でそれらをまとめる。
立ち居の姿が汚ければ、それはすぐにしわになってドレスに出る仕組みだ。
きちんとした王国風の立ち居振る舞いができなければ、美しくは見えない。
「まあ、これならいいでしょ。公国風に染まってない女はどう貴族世界の目に映るかな? よくて祖国のしきたりから抜け出ることのできない、田舎の女? それでもいいわ、悪くてどうかしら? イブリースに相応しくない、そう見えるかもしれない」
ふう。
アンリエッタはため息をつく。
物憂げな瞳を部屋のそこかしこに向けてみた。
まるで隠された視線が、そこかしこにあるような気分になっていた。
必要なことは、イブリースにふさわしいかそうじゃないかじゃない。
素行不良で追い出すなら、王国に不利になる。
それはおじい様の怒りにしかならない。
つまり、子供にとって不利になる。
そういうことだ。
ああ、でも待って‥‥‥考えが次から次へと沸いてくる。
不安も含めて。
「おじい様は、出産を許してくださるかしら? おばあ様はどう考えるかな、お父様とお母様はどうだろう? 王国は公国から二度、嫁と婿を迎えたけど、嫁入りしてきたのはわたしだけ。女たちの意思は弱いわね‥‥‥例え、おばあ様が戦地でおじい様の危機を救った恩義があるといっても、もう半世紀以上前の事だから。公国がそれを盾にして、今更どうこう言うのは、帝国だの枢軸だのに言い分を与えることになるわねー」
自分は敵地に送り込まれた王国の矢なのだとしたら? 誰を狙うべきかしら。
一撃必殺のヒットを打てないとしても、急所をえぐるくらいはできる矢になりたい。
できるなら、毒の塗られた矢がいい。公国が両手を挙げて苦しむ程度には、使える毒が良い。
「でも、子供になんて言おう。あなたのお父様は他の女にうつつを抜かしてあなたとわたしを捨てたのよ? どう、悔しい? なら、その牙を突き立ててきなさい‥‥‥?」
最低。
母親として子供に憎しみを植え付けてどうするの。
与えるなら愛情にしなきゃ、王国の戦士として育てるよりも、子供には自由に将来を選ばせたい。
そう決めると、アンリエッタは身支度を進めていく。
蒼い髪をなるたけ背丈が増えたように見せたいから、高く結いあげてまとめた。
戦場では、例え女でも全てを自分でしなければならない。
「ちゃんと日々、練習していて良かった。身だしなみもできない女と言われないで済むもの」
選んだのは薄い墨色のドレス。
これなら、悲しみを宿した女に見える。
彼に贈られた指輪にネックレス。
そのどれもが、瞳の色に合わせた緑色。
こんなところだけは気が付く人だった。
一つだけ、自分の好きな紫の指輪にした。
「この指輪‥‥‥魔力を封じたものだって聞いているけど、使うことにならないといいな。魔法なんて、便利なようで何もわからない不可思議なものは怖いもの。使うなら、魔法使いを雇いたい気分だわ」
従僕がいない。手荷物をもたせる存在がいないのは、困る。単なる、下級貴族に見えてしまう。
(騎士の一人だけでも残して下さい)
ヘレンの言葉がまた、脳裏に浮かび上がる。そうするべきだったかもしれない、と考えてしまう。
ここは祖母の故郷、母の実家。家族の国なのだ。仲間割れはしたくなかった。
「さて、と。じゃあ、歩いて‥‥‥行きますか」
馬に乗ろうにも馬すらいない。予備の馬車はあっても、引くものがいない。
従者は あの外壁との間には公国側の役人がいるはず。まあ、衛士となら話ができるかな? そう思い、アンリエッタは歩き出した。