ハロー、私のゼラニウム
『さよなら、私のブルースター』https://ncode.syosetu.com/n7775gt/のその後のお話。
婚約者から感じたのは憎悪に近い感情でした。
彼の心を繋ぎ止める努力は虚しく、笑いかけてくれない彼に、私はほとほと疲れていました。
何をしてもだめだと否定されて、嗤われて、貶されて「好き」という感情が残るはずがありません。
彼から「婚約を解消したい」と言われた日には喜びを感じてしまう程、私は追い詰められておりました。結局、婚約は白紙にはなりませんでしたけれど……。
彼が私を苦しめた原因が、禁忌の呪いである魅了だと分かった時、それにかかっている者達が解呪され、彼は真っ先に私に許しを乞いました。
──許せないと思いました。
呪いにかかった彼は、はたして本当に被害者なのでしょうか?
魅了にかからなかった方もいるのです。決して抗えない呪いではなかったのです。
魅了の呪いがとけた彼の謝罪を受けない私に、お父様は「許せ」と言いました。
呪いのせいなのだから、仕方なかった、と。
胸の中に黒いものが渦巻く感覚を、知りました。
それは吐き出さずにいられないものです。
「結婚はします。お父様の命令ですもの。従います。許そうが許さまいが、私は命令に従うと言っているじゃありませんか。……これ以上、命令しないでくださいませ」
父に初めて反抗的な態度を取ったことを、私は反省したり、後悔したりはしませんでした。
案外、怖いものではなかったと思います。もっと他に怖いことがあるのですもの。
婚約者との結婚──地獄は生きている時に行くところではないと思いませんか。
反抗的な態度に、頬を打たれる覚悟は要らぬものでした。
なんと、あのお父様が私の言葉に落ち込んだのです。
なぜ、お父様が落ち込むのでしょう。
道具のことで、落ち込むなど信じられませんでした。
「──今、なんて仰いました?」
ガチャン、と大きな音を立ててティーカップを置いてしまいました。
だって、あまりにも突然でしたから。
お父様はもう一度、言いました。
「グランヴィル侯爵家との婚約は白紙になった」と。
──なぜ?
言葉が出ません。お父様の真意がわからないのです。
「悪かった」
一言だけ言い残してお父様は部屋から出て行きました。
「お嬢様、旦那様は反省しておられます」
呆然としていつまでも動かない私に執事長が話しかけます。
「旦那様はお嬢様のことをとても大事に思っているのです」
「……嘘よ」
思わず呟いた私に執事長は悲し気に笑います。
最近の私は周りにこんな顔ばかりさせています。
「──当時、グランヴィル侯爵家の御子息様との婚姻より利のある方が何人かいらっしゃいました。ですが、旦那様はお嬢様との相性を見て、それはもうお悩みになってあの方に決めたのです。お嬢様、『どうせこうだろう』と思い込んで、相手の気持ちを決めつけてはいけません。旦那様もこの屋敷の者も、お嬢様の幸せを願っております。それを、どうかお忘れなきよう」
執事長は、失礼しますと言って部屋を出て行きました。彼はお父様のところへ行ったのでしょう。
──私は、子供です。
後悔したと気付くのは、いつもそれが終わった時です。
彼の謝罪を受けておけばよかったなどとは思いません。
お父様に結婚はしたくないと言わなかったことを後悔しています。
なんて嫌な感情でしょうか。
きっと、すぐには消えてくれないものです。
癒えても跡が残る傷を、私は自分で作ってしまいました。
踏み躙られた花は元に戻らないし、一等好きだった花が嫌いになってしまった事実はなかったことになりません。
地獄に行かなくていいというのに、苦しさが綺麗になくならないのはなぜでしょう。
「なあ、フラン。これ──」
「あなたねえ、お姉様と呼びなさいって言われているのでしょう?」
「それ言ってるの母さんだけだろ。公爵……義父上からは言われてない」
「あなたは、私の弟なのよ?」
「八日」
「何?」
「たったの八日。フランが俺より早く生まれただけ。学年も一緒なのに姉さんなんて呼べない」
「でも私がお姉様だもの。ね、呼んでみて?」
「長女っぽくないし無理」
「嘘よ。私、しっかり者と言われていてよ」
「はいはい。それよりこれ教えて。課題がわかんね」
婚約が解消された後、お父様は再従兄弟のヴィンセントを養子に取りました。
元婚約者の婿入りがなくなったのに、私のお勉強は一旦保留です。まあ、ほぼ終わっているのですが。
そして、なんと今は学園もお休みしております。
その代わり、ヴィンセントは大変です。いきなり次代の公爵になったのですから。
男兄弟で育ったせいか口が悪いヴィンセントですが、頭はとても良いので心配はしていません。
学園の成績も奮って、現在は十位以内に入っています。やればできるのですね。やる気を出す前は真ん中より下の順位でしたのに。
ヴィンセント本人には言いませんが、私は気が楽になりました。
私は、期待が重いのです。
お父様とはまだやはりぎこちなさがあります。
大人になってからの歩み寄りというのはとても難しいものです。
この言い表せられない新しい感情に私はまだ名前を付けることができません。
「そういえば、 フランの元婚約者と話した」
ヴィンセントは不意をつく悪い子です。でも私はお姉様ですので澄ました顔で「あら、そう」と答えることができます。
バツが悪い顔をするくらいなら言わなければいいのに。困った義弟です。
「謝りたいって言ってた」
ヴィンセントは居住まいを正し、私を見ました。
「……そう」
なんとなく、茶化す雰囲気でないことは察しました。
「言い訳してた。呪いのせいだとか、マーガレットの毒牙にかかったとか」
「……そう」
「俺に、お前と自分の仲を取り持てってさ。出来るなら婚約を再度結び直したいって」
「……」
「フランに会わせてくれって頭下げられた」
会って、謝罪を受け入れろと言うのでしょうか。
きっと、そうです。
だって皆そう言うもの。
許すことができない私は、だめな人間なのです。
この場から離れる心算をしていた私にヴィンセントは全く予想外のことを言いました。
「──だから、断っておいたけどいいよな?」
「え?」
断った?
「ふざけんなって言ってやった。ぶん殴りたかったけど我慢した俺、偉いよなあ」
決めつけてはいけない、と言われたのに私はまたそうしていました。
「人を殴ってはいけないわ」
「言葉の綾だ。殴る価値もない、あんな奴」
「あんな奴って……」
「あんな奴で十分だ。お前、周りが許すムードだからって、自分もそうしなきゃって思ってんのか?やめろ。怒ってんなら許すな」
「……許さなくて、いいの?」
「いいだろ。お前は悪くないんだから」
もしかして、これは慰められているのでしょうか?
私に「許さなくていい」と、言ってくれたのはヴィンセントだけです。
「フランは好きなこととかないのか? やりたいことは? 食いたいもんは? 行きたいとこは? せっかくの休み期間なんだから満喫しろよ。執事のおっさんに叱られたくらいで、いい子のふりすんな。我が儘言えばいいだろ。そのうち言えなくなるんだから今くらい言っとけ。義父上もこの屋敷にいる人間も皆お前の味方だ。大抵のことは叶えてくれるだろ。それでも傷付いたら俺に言え。大丈夫だ、なんとかしてやる」
好きなこと、なんて考えたこともありません。ヴィンセントの言ってることは無責任なことな気がします。
それに執事長には叱られたのではありません。
いい子のふりなんて、私は……。
あれからお休み期間を伸ばした私は、学園には行くのをやめました。
卒業はしましたが、卒業式は欠席し、祝賀会も欠席しました。
理由は単純です──まだ会いたくなかったのです。
ヴィンセントの言う通り、私の我が儘をお父様は許してくださいました。
色々考えましたが、元婚約者を許せないのです。今はどうしても、許せないのです。
時が経てば許せるかも知れません。
でも許せないかも知れません。
どちらにせよ、時が経たねば分からないことです。
謝罪を受けなかったことについて、思い悩むこともありましたが、私はいい子にならなくてもいいらしいのでやめました。
やりたいことは未だに見つかりません。
だって今まで、言われたことしかしてこなかったのですもの。簡単には見つかりません。
ただ読書の時間が増え、読む本のジャンルは大きく変わりました。
勉強の為の読書ではなく、娯楽の為の読書になったのです。
あんなことがあったというのに、私は恋愛小説を好んで読んでおります。
冒険小説も嫌いではないのですが、流行りの恋愛小説を手に入れてはメイド達と一緒に感想を言い合っています。
今は、幸せに終わる結末のものしか読むことができませんが、悲恋ものもいつかは読んでみたいです。
「何これ、こんなのが流行ってんの?」
読み終わったばかりの恋愛小説をパラパラめくりながらヴィンセントは眉を顰めます。「うげ」などと言ってます。
なんて人でしょう。
「ええ、シリーズものなのだけれど、どのシリーズから見ても分かるように書いているのよ」
「ふうん、どんな話?」
「幼馴染の騎士とお姫様の二人が苦難を乗り越えて、結ばれる物語よ」
この苦難というのが、文字通り苦難という苦難で、はらはらどきどき手に汗握る内容なのです。
お互いにとんでもない誤解をしたことから始まり、暗殺されそうになったり、記憶喪失になったり、ありとあらゆる困難が二人を襲うのです。
二人がめでたく結ばれた時には、思わずほろりとしました。
「あっそう」
「もう、興味ないなら聞かないでよ」
「つうか、こんな男いねえし」
「いるかも知れないじゃない」
「お前いくつだ?」
「意地悪ね」
結局読んでるヴィンセントは、物語のヒーローにご不満のようです。
「大体なんだ、これ。『十一本の薔薇』って。半端だ。こんなの貰って嬉しいのか?」
「うふふ」
「何笑ってんの」
「ヴィンセントにも分からないことってあるのね」
「は?」
「薔薇には意味があるのよ」
「知ってる。花言葉だろ」
「薔薇の花言葉は本数や色、組み合わせなんかによっても意味が違ってくるの。十一本の薔薇の意味は、『最愛』よ」
「副題に書いてあるな」
「あら、花言葉に詳しくないことがバレちゃったわ」
「……フランもあるのか」
「何が?」
「貰いたい花」
「──今はないわ」
昔はありました。
幸せを呼び込む 星の形をした青い花。
あの花が一等好きでした。
学園を卒業してから、二回目の春を迎えても私はお休み期間の中にいます。
これは、流石にまずいのではないでしょうか。
お父様や執事長を筆頭に皆が私を甘やかすのも悪いと思うのです。
「もう二十歳になるのね」
「奇遇だな。俺もだ」
奇遇ではありません。お誕生日が近いのですから当然です。
いえ、私が言いたいのはそうではなくて。
「あなた、婚約者がいないけれど一体どうなっているの?」
「フランもな」
「わ、私はヴィンセントが婚約したら出て行くつもりだから」
「どこに行くつもりだ」
「修道院に」
「もし修道院に入ったらお前が大好きな恋愛小説は読めなくなるけどいいんだな?」
「え! そうなの?」
「いや、知らんけど。いいから、ずっとここにいろよ」
「雑ねえ。……あ! ヴィンセント、ちょっと」
「……何見てんだ、こら」
じっとヴィンセントを見ます。
他人には分かりにくいですが、私にとってヴィンセントの表情は読みやすいのです。
「あなた、もしかして結婚したい方がいらっしゃる? ……あ、その反応は、いるのね? お父様は知って……いるのね?」
「うるせえっ」
むすっとした顔しちゃって。
そんなことでは、好きな子に呆れられてしまいますよ。
それにしても、ヴィンセントにそんな方がいるとは知りませんでした。
彼がその方を連れてきた時、私は──
二十歳のお誕生日会も、昨年と同様に私とヴィンセント合同のものになりました。
ヴィンセントは今の今まで一度も私を「お姉様」と呼びませんでした。可愛くない義弟です。
小母様に言い付けてやります。怒られてしまえばいいのです。
初めて飲んだお酒は私には合いませんでした。身体がカッと熱くなって、くらくらします。
グラス一杯飲んでしまったら真っ直ぐ歩けなくなるでしょう。
バルコニーで涼みながら、酔いを覚ますことにしました。
星が見えない曇りの空を、怖いと感じることがありますが、今日は楽し気な音楽と笑い声が聞こえるので平気です。
──私は二十歳になりました。
「おい、風邪引くぞ」
ヴィンセントが一人バルコニーにいる私に、上着をかけてくれました。
少し寒くなってきていたので素直に借りましょう。
「ありがとう」
「……乾杯するか」
「なあに、いきなり」
グラスを渡されて困ってしまいます。今日はもうお酒を飲めません。倒れてしまいます。
「それ酒じゃないから飲めるだろ」
「本当だわ。マスカットジュースね、美味しい」
「おい、乾杯するって……」
「ふふふ、ごめんなさい。思ったより酔っていて。強くないみたい、私」
「義父上も酒強くないよな」
「遺伝なのかしら……あなたは強いの?」
「そこそこ」
「もう。学生時代から飲んでいたのね?」
「男には付き合いがあるんだよ」
「悪い子の付き合いだわ」
「はいはい、乾杯」
「ちょっとっ」
ティン、とやや乱暴にグラスが鳴らされました。液体が溢れそうで焦ります。
「フラン」
「はい?」
「俺は今日、酒を一滴も飲んでない」
「どうして?」
「……………あー」
今日のヴィンセントは朝から変です。
そわそわして落ち着かない様子で、目が合わないのです。
「大丈夫? もしかして具合悪いの? 誰か呼んで来ましょうか?」
お酒を飲んでいないのに、顔が赤いのはどういうことでしょう。
誰か人を。そう思って身を翻した私はグラスを持っていない手を引かれました。
どきり、と心臓が音を立てます。
「フランチェスカ──」
真剣な声に混じるのは、緊張と不安。そして、ほんの少しの強がりとハッタリです。
「跪いた方がいいんだよな」
私の返事も待たずにヴィンセントは跪きました。
「ヴィンセント!? ま、待って、私……」
彼に、見上げられるという珍しい感覚に、心が落ち着きません。
「待てない。聞け」
今すぐ逃げ出してしまいたいのに、彼が何を言うのか知りたくて仕方がないのです。
「……フランチェスカ。どうか、私の妻になってください。義父上には求婚の許可はいただきました。しかし、得たのは許可だけです」
彼が私の手の甲に唇を落とし、続けます。
私は、どういうわけか声が出せません。
「貴女が首を横に振るなら、諦め──ああっ! 無理だ! 柄じゃない! 頼むフラン、頷いてくれ。俺はずっとフランのことが好きだったんだ。生涯言うつもりなんてなかった。でも、チャンスがあるなら逃したくなくて義父上にお前と結婚したいと頭を下げた。義父上はフランが頷かないなら結婚はさせられないと言ってる。……俺は粗野だし、気も利かない。物語の男のように傅いたり、甘ったるい言葉も、うやうやしく愛も囁けない。でも、これだけは自信を持って言えることがある。
──俺は、お前以外の魅了の呪いには、決して、かからない」
「わ、私、呪いなんて、かけられないわ」
「言葉の綾だ」
「……好きって……本当に?」
「ああ、フランが好きだ」
「ず、ずっとって、いつから?」
「お前があいつと婚約した日より前から」
どうしましょう。
お酒の酔いが覚めません。それどころか酔いがますます回ってきているようです。顔に血が昇っています。
「ずっとだ。お前が幸せそうだから、それでいいって思ってた……あいつが馬鹿になる前まで」
星もない空の下で、肌寒いバルコニーで、ちっともロマンチックではないのに、嬉しいなんておかしいです。
──それに、求婚の花だってありません。簡単に頷いてはいけません。
「……は、花は?」
声が裏返りましたが、ヴィンセントは馬鹿にしたり笑ったりはしませんでした。
「欲しくないのかと思ってた。欲しいか?」
「……欲しいわ」
「挽回のチャンスをもらえるか? フランに花を贈りたい」
「……」
彼が、私の次の言葉を神経を尖らせて待っています。
「フラン、頼む」
まるで催促するみたいにきゅっと指先が握られました。
本当にせっかちな人です。
「ええ。いいわ。私、花を貰えたのなら、きっと頷くと思う」
「用意する。欲しい花はあるか?」
「青い花は嫌なの」
「……? わかった」
「 恋愛小説の真似はだめよ」
「……………………わかった」
「私の為に花を選んで」
「わかった」
「ちゃんと真面目に」
「わかってる」
「それで、色は赤がいいの」
私の言葉にヴィンセントが首を傾げます。
「赤? お前の好きな色は青だったろ?」
どうして、と言う彼の言葉を遮り──
「──あなたの瞳の色だから」
ヴィンセントがお酒を飲んでいないと言うのは嘘です。
「わ、わかった」
だって、彼の顔が真っ赤なのですもの。
【完】